投稿者: Opekepen

  • フランシス・ベーコンとピカソ

    ロンドンのテート・ブリテンで、「ピカソと近代ブリティッシュ・アート」展が開催中です。展覧会は2つのストランドで構成されています。


    ひとつは、ピカソが英国でどのように紹介され、評価され、あるいは批判され、受容されてきたかを、1910年代、20~30年代、40~50年代に開催された展覧会からみ解いていくもの。
    もうひとつは、7人の英国人アーティストたちがピカソからどのように影響を受け、それを消化し、自らの新たな創造性につなげていったかを探るものです。


    後者では、例えば、ベン・ニコルソンやヘンリー・ムーア、デビット・ホックニーの作品がピカソ作品と比較しながら並列されていました。

    そのなかで新たな発見だったのは、フランシス・ベーコン
    がピカソの影響を受けていたことです。ピカソの作品を見た後、ベーコンの作風がガラッと変わったというのです。ベーコンの作風からピカソの影響は思いもしなかったので驚きでした。

    展示室に並んだふたりの作品をみていくと、確かに、ピカソの海岸に戯れる人物シリーズに描かれたポリープのような人間のフォルムは、ベーコンの「キリスト磔刑図」などの奇怪なまでに歪曲した塊にとても似ています。


    人間の感情をいかに表出させるか考えあぐねていた若いベーコンは、ピカソの抽象的な人物像をみて、頭の電球がぱっと明るくなったのでしょう。

    しかし、ベーコンが他の作家たちより優れているのは、それをまるまま写し取るのではなく、あの人間の内面をまるで外側に裏返すかのような、ベーコン独自の表現にもっていったことです。


    もうひとつ面白かったのは、第一のストランド、つまり、英国におけるピカソの受容の変化。
    それが第二のストランドであるブリティッシュ・アーティストたちへの影響と、交互に構成されていることです。
    それによって、ピカソが英国の美術界や社会全体に与えたレガシーを有機的に理解できるようになっていました。

    確かに興味深い側面もあったものの、展覧会全体の印象は散漫だったというのが、正直なところ。理由は、複数の比較がそれぞれ同じボリュームをもって提示されていたからではないかと。展覧会の構成が平坦なままで、主体である来館者が入り込んでいけるつくりにはなっていない。

    また、ある作品を鑑賞するにしても、どうも、他との比較の方が先にたち、ひとつの作品として集中して観ることを時に邪魔してしまい、アンビバレントな気分にさせられるのです。

    来館者にとっては、見学全体がひとつの体験として集約され、余韻として残ります。このような新しい切り口でピカソを振り返ることにも、もちろん学術的な意味があります。
    こちらを立てれば、あちらは立たず。
    展覧会をつくるのは、たいへんな作業だとつくづく思う次第です。とりとめもないまま。

    ‘Picasso & Modern British Art’ at Tate Britain   ~15/07/2012

  • 鏡と椅子:ふたつのフロイド・ミュージアム

    精神分析学の権威フロイドの名前を冠したミュージアムが、世界にふたつあります。ひとつは、ロンドンの北部住宅街にある一軒家、もうひとつはウィーンのベルガッセ通りに面したアパルトメント。どちらも彼とその家族が住んだ家です。

    ウィーンは、1891年から45年以上の長きにわたって拠点とした場所。精神分析医としての名声を高めていったのも、家族を育てたのも、この家でした。しかし、やがてナチスが台頭すると、周知のように、家族ともどもイギリスに亡命したのです。

    ロンドンのミュージアムは我が家にも近く、興味深い企画展をよくうつので、何度か足を運びました。なかでも彼の書斎はとても面白い。大きな仕事机も、書棚も、暖炉の回りも、好奇心をそそられるオブジェに溢れ、こういうものを眺めながら、人間の深層世界を探究したのだろうかと思い描いてみます。


    患者たちがリラックスして診断を受けた大きな安楽椅子もあります。色鮮やかなイランカーペットがかけられたその椅子は、実にすわり心地がよいのだそうで、ウィーンからわざわざ運んできたのだとか。

    少し離れて、特別注文で作ったフロイド専用の不思議な形をした椅子が置いてある。彼が仕事をしていた空間がそのままの状態で残されているのです。

    ここを先に見ていたからでしょうか、
    今回のウィーンの旅で、フロイドの家を訪問した時、「亡命」の爪あとを見たように思います。なぜなら、当たり前のことですが、ウィーンの方はまさにも抜けの殻で、彼が仕事をした、生活をした、その匂いがほとんど感じられない。当時の面影を残すのは、特徴ある壁紙が張りめぐらされた玄関ホールだけでした。


    評判の医者として多くの患者を受け入れた仕事場には、壁面のガラスケースに、当時の室内を捉えた写真や手紙や身の回り品が展示されている。家族の住空間であったところは、ショップやミュージアムのオフィスになっています。

    ふたつのミュージアムを表面的に比較するならば、ロンドンの方がだんぜん血の通うミュージアムでしょう。見学客にとっても、彼のパーソナルな側面をより深く理解できるし、なにより見甲斐があります。

    だけれど、亡命したのはフロイドが83歳の時であり、その翌年には末期がんで亡くなっていること―つまり、ロンドンには1年しか生活しなかったこと、そして、弟子たちが亡命を勧めていたにもかかわらず、本人は最後の最後まで反対していたことを考えれば、フロイドにとって、本当に血が通った場所がウィーンだったのは、疑いようもありません。


    そんなことを考えながら、もぬけの殻のウィーンの家を見ていていると、そのあまりの空虚さが痛々しい。生活を根こそぎ奪われてしまうことの重さを、あるいは、ひとと空間の繋がりの深さに思いが至るのです。

    ところで、そのエンプティなミュージアムに、気がかりなものをふたつ見つけました。ひとつは、ロンドンの書斎にもおいてある、あの「フロイトの椅子」が、なんでもないコーナーにぽつんと置かれてあったこと。


    なぜ、この椅子はここにあるのだろう。フロイドはわざわざ同じものをロンドンでも注文したのだろうか。それなら、なぜ、この椅子だけがここに残されたのか。いや、博物館側が作ったコピーかもしれない―フロイトの分身として、この椅子が選ばれたとしても不思議ではない・・・。(ノートが置いてあるのにドイツ語が読めない)

    もうひとつは、外を望む書斎の窓の、そのど真ん中にかけてあった小さな飾り鏡。この鏡は、フロイドがここに住んでいた頃から、この不可解な位置にあったのだそうです。その鏡だけが、ひょっとしたら、フロイドがもっとも盛んだった頃の、仕事や家族の様子を知る唯一の目撃者なのではないかと、想像を膨らませます。今、ここに映っているのは、ガラスケースの展示資料や観光客だけだとしても。

    2012.5.19

  • スロヴァキアの小さな陶磁器ミュージアム

    スロヴァキアの首都ブラティスラヴァの小さなミュージアムのお話をしたいと思います。

    ブラティスラヴァ郊外のワインの町、モドラにある陶磁器ミュージアムです。町は色鮮やかなマジョリカ陶器でも有名で、たくさんの工房があります。町のInfoで入手した地図に、陶磁器のミュージアムが紹介されていたので、足を伸ばしてみることにしました。

    小雨降る中、地図を頼りに歩いていくと、まるで要塞のようながっちりとした茶色の建物が見えてきました。どうやらあれが目指すミュージアムのようですが、看板にはホテルとでています。
    首をかしげながら近づくと、たしかにミュージアムでもあるようです。

    ははぁ~、ホテルが経営する商売目的のミュージアムか、あんまり面白くないかもしれないな、というのが最初の推測でした。
    レセプションで、ミュージアムを見たいのだと告げると、こちらですと部屋の電気をつけてくれました。なんの変哲もない扉を開けると、時間が止まったかのような工房の中。
    いるのはわたしたちだけ、最初の推測は、どうやら間違っていたようです。

    部屋の真ん中には、かつては忙しく音を立てていたであろう砕石機が埃をかぶっています。部屋を見渡すと、水を混ぜるための大きなシンク、足で蹴るタイプの大きなロクロ、50年代式の赤いバイクが目にはいってくる。ふと窓際に目をやれば、陶磁器作品といっしょにレーニンの頭像が射し始めた光のなかにあります。

    ミュージアムらしきものがあるとすれば、壁際のガラスケースぐらい。棚には初期のあまり色づけがなされていないシンプルな陶磁器や、当時の写真が無造作に置かれているだけ。

    建物のさらに奥に入っていくと、炉釜や作業場がありました。どの一角をとっても、まるで、つい昨日まで作業をしていたのに、急に時間が止まったかのような様子です。写真から伝わるとよいのですが。

    簡易階段があったので、わくわくしながら2階へあがっていきました。そこには天井まで届くような棚が並んでおり、出来上がった陶磁器や型が置かれています。工房だったときも、ミュージアムとしての今も、陳列棚として機能しているのです。

    ここがかつて工房であったことは、もはや疑いもありません。
    ならば、なぜ、ホテルになったんだろう。いや、ホテルになったのはよしとして、なぜ、ホテルの経営者がここを残したのかが、むしろ気になるのです。これだけのスペースならば、客室がいくつも入るだろうに・・・。

    階段をさらに上がっていくと、
    やはり有名な陶芸家を輩出した歴史ある工房であったことがわかりました。工房は町の郊外に移転し、ホテルが建物を買い取ったとのこと。要塞のような建築も伝統的な工房の特徴なのです。
    ホテルの名前は、ある陶芸家の名前にちなんだもの。
    それらのことから、ホテルの経営者の伝統に対する敬意が感じられます。工房をつぶさないで、ミュージアムとして残したのも、その思いと繋がるのかもしれません。

    しかし、ミュージアムにするなら、もう少し手をいれて、もっと訪問客が入るようにしたり、ついでに陶磁器のショップなど置くのが、常道だと思うのですが。
    いや、わたしにとっては、手前勝手ながら、このような空間だからこそ、感慨深いものがあったし、逆にいえば、heritageのあり方を考えるきっかけにもなりました。


    この中途半端に忘れられた時間の隙間は、いったいホテルの経営者の考えに沿ったものなのか、単に、お金が回らないだけなのか、そこには、社会主義から資本主義への社会的移行の影響があるのか・・・。なにより、次に尋ねるときには、このまま残っているのだろうか・・・。
    そんなことを思いながら、再びばらつき始めた雨の中、傘をさしてワイナリーに向かいました。

    記事:2012.5.12

  • The Paint is the Person: ルシアン=フロイド展

    The Paint is the Person: ルシアン=フロイド展

    キャンパスいっぱいに描かれた巨大な肉の塊。
    無防備なポーズで横たわる男や女の裸体。
    ルシアン・フロイドの作品に出会った時、その強烈なまでの露呈に思わず目を背けた人は少なくないはず。
    わたしもその一人でした。

    しかし、ロンドン、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(肖像画美術館)での回顧展を見終わった時、
    そのネガティヴな印象は消えうせ、画家のまなざしに魅了されている自分に気付いたのです。

    フロイドが描くポートレートは、たとえ着衣であろうと、
    覆いの下に隠れた人間の肉体や骨格を触感的に感じさせる。
    いや、それなら心得のあるアーティストであればやってのけるでしょう。

    この画家が類稀なのは、肉の下にある心の襞、その陰影までも探ろうとしていることです。
    描かれた顔の起伏や肌の皺から人の生き様が、その瞳の潤いや指の関節から、心の機微や画家との関係までもが浮かび上がってくる。


    そこには、祖父であるジークムント・フロイトの血が流れているという見方もあるでしょう。いや、月並みにそれを持ち出す必要もない。そこにあるのは、見ることが筆をもつ手に直接的に連動した一人の画家のアプローチに他ならないからです。

    ルシアン・フロイドは、家族や友人など身近な人や動物しか基本的に描きませんでした。
    モデルの背景も、アトリエという彼が慣れ親しんだ空間です。
    くたびれたベットも、色褪せたソファーも、むき出しの水道管も、繁殖しすぎた観葉植物も、筆の拭うためのシーツの山も、全て画家がよく知るものたち。

    対象との親密さと鋭い観察眼の間には計り知れない葛藤が横たわっているはずなのに、制作過程の闘いの中でみごとに乗り越えられ、ひとつの芸術作品が生み出される。

    フロイトが描く「対象は生だ。アートとしてダイジェストできるように料理されているのではない」
    自身もアーティストであり、フロイドのモデルにもなったフランク・アウアバ-クのこの言葉は的を得ています。
    フロイトの作品は、‘目を喜ばす刺激的なアート’という次元で括れる表現を超えている、というわけです。

    ここには、社会的ステータスはもちろんのこと、身体的にも精神的にも理想化された表層など微塵もありません。
    それがたとえ自分の赤ん坊であろうと犬であろうと女王であろうと。
    フロイドが生涯をかけて追求したのは、存在そのものであり、その手段がポートレートだったのです。

    とりわけ自画像は、見ることと見られることがもっとも深いレベルでせめぎあうテーマに相違ない。
    フロイトも何度も挑戦しています。
    初期の頃は、アトリエの窓枠にかけられた手鏡に映る自分や、
    大きな鏡に映る小さな子供たちの背後から覆うように見下ろす父としての自分を描いたりして、
    心理的な趣向を凝らしている。
    しかし後年は、もうそんなレトリックは無用になる。
    ただ真正面からありのままの自己を描くのです。

    たとえば、2002年の作品は、
    裸の体にグレイの上着を無造作にひっかけただけの80歳のセルフ・ポートレート。
    顔の細かな起伏を描く筆致は、背景にあるアトリエの壁、その全面が絵の具でぬり殴られたタッチと響きあう。
    前面にあるのは、禿げ上がった頭髪、たるんだ目元、コケ落ちた頬。
    鼻柱だけが赤らみ曲がりくねりながら意思を主張する。
    陰のあるまなざしは、だけど独特の鋭さを奥深くに宿している。
    たくさんの作品を生み出してきた手は筋張った首に巻かれた紫色のスカーフを絞め、
    まるで自分という「生」を見る者に突きつけるかのよう。

    ここには、ヴェラスケスやレンブラント、ジャコメッティと通ずる、自己を見据え、抉り出さんとする画家がいます。
    キュービズム、ポップアート、インスタレーション、デジタルアート・・・
    彼が生きた戦後のアートの形態がいかにめまぐるしい変化しようと、
    フロイドは自分のアトリエでキャンバスに向かい、周囲の人やものを題材にして黙々と描いてきました。

    そのようにして、誰よりも孤独で深遠な探究を続けてきたのではないか。
    そこから湧き出るエネルギーの渦の中に、私たちは吸い込まれてしまうのです。

    昨夏、フロイドは他界しました。
    死の前日まで筆をもっていたそうです。
    最後の絵は、アトリエの床に腰を下ろし画家を見上げるアシスタントと、その傍らに横たわる愛犬を描いた絵。最期にもっとも身近にいた存在です。

    大げさに聞えるかもしれませんが、展覧会やコンサートの後で、生きていてよかったと思うことがあります。
    その芸術家がもうこの世にいないことは悲しいことですが、私は彼・彼女より後で生まれたおかげで、
    あるいは長生きしているおかげで、生み出された数々の作品と出会うチャンスに恵まれ、その至福を味わうことができるのだと感謝しないではいられない。
    この展覧会はそのひとつでした。

    ‘Lucian Freud Portraits’ at National Portrait Gallery, London – 27 May 2012.

  • 大英博物館がメッカになった

    ○○のメッカといえば、あることにおける重要な場所を意味しますが、本物のメッカは、周知のようにイスラム教最大の聖地で、教徒ならば一生に一度は訪れるべき巡礼の地。サウジアラビアの西部に位置しています。

    ここはロンドンの大英博物館。
    そのチケット売り場に、イスラム教の帽子をかぶった男性やベール姿の女性が列をなしている。メッカ巡礼をテーマにした「Haji: Journey to the heart of Islam」展が終盤を迎え、ロンドンや近郊に住むイスラム教徒たちが、第二のメッカに集まってきたかのような勢いです。

    展覧会は、巡礼への道を象徴するかのような壁にそった暗い通路から始まります。展示の前半は歴史的な考察。
    巡礼の歴史は、預言者ムハンマド自身が行ったAD632年まで遡るのだとか。宗教として確立されるにつれ、巡礼のための4大ルートが定まっていきます。

    • アラブ半島からのルート
    • アフリカからのルート
    • トルコからのルート
    • インドからのルート

    歴史上の人物が行った巡礼の記録を交えながら、それぞれのルートから、どんな人々がどのような旅をしてきたかを、展示は語ります。

    わたしなど外部の人間は、イスラム社会をひとつで括ってしまいがち。でも、展示を見て、歴史の深さは言わずもがな、その多様性に改めて驚いてしまいました。周りを見渡しはっとしました。ここに見に来ている人々も実に多様なのです。言葉も違えば、服装も微妙に違う。

    そうして、メッカとは、7世紀の昔からさまざまな文化が出会う場でもあったのだと気付くのです。だからこそ、派生的にさまざまな社会的活動が起こる。そこで知識が交わされ大学ができれば、物々交換がなされ市場が活性化する。

    展覧会の後半は、巡礼の目的地メッカでのさまざまな儀式に焦点があたっていきます。現在の巡礼の様子や、イスラム系のアーティストによるコンテンポラリーな作品が並び、巡礼を終えたあと、その経験を語るひとりひとりの言葉(オーラルヒストリー)で締めくくられる。
    巡礼の経験を辿りつつも、空間と時間が有機的に織り成されたよくできた展示構成です。

    もっと興味をそそられたのは、やはり人々の反応でした。
    文化圏も異なれば、年齢層も幅広い。若者がおじいさんおばあさんに母国語で説明する様子があちこちで見られました。
    解説ラベルが英語で書かれているからです。

    なかには、あるおばあさんが展示物に触れようとして、孫に止められたシーンにも出会いました。「博物館」なんて西洋の文化施設に訪れたことなどない人もたくさんいたのではないでしょうか。
    そういえば、メッカの黒いキューブの一角にはブラックストーンというのがあり、巡礼者はそれに手を触れたり、キスしたりしようとするのだそうですが、そういう文化背景と「博物館」という視覚優先のモダニズム文化との間に横たわるギャップにも思い当たります。

    イギリスにはたくさんのイスラム教徒が住んでいます。
    歴史を通して彼らとの摩擦は絶えませんでした。特に、911やイラク戦争のあとは、深刻な社会的懸念になっています。

    ロンドンでの2007年爆破テロも、まだ記憶に新しい。いかに彼らを招きいれ、彼らの文化をともに表象していくのか、
    大英博物館にとって、いや、すべてのミュージアムにとって、避けては通れぬ大きな課題なのです。

    この展覧会で残念だったのは、来館者が圧倒的にイスラムの人々で、西洋人があまりいなかったこと。東洋人らしきはわたしひとりだけだった。人は自分を見に展覧会にやってくるのだからと、言ってしまえば身も蓋もない。


    他者どうしが互いの文化を理解できるような展覧会にすることは、次なるステップなのでしょうか。

    いずれにせよ、個人的には、イスラムの多様性やメッカ巡礼の意味を学ぶことができてとても得した気分です。

    記事:2012.4.12

  • 目も眩む頭骸骨:デミアン・ハースト展

    巨大なタービン・ホールの中央に、設置されたブラックボックス。暗闇に「Damien Hirst」の銀文字が浮かびあがってきます。

    その前には蛇行する長い列。プラチナとダイアモンドで埋め尽くされた頭蓋骨をみるために並んでいるのです。

    90年代、世界のアート界に旋風を巻き起こしたYBA(ヤング・ブリティシュ・アート)の旗手デミアン・ハーストの大規模な展覧会がテート・モダンで始まりました。

    彼のホルマリン漬けの鮫や真っ二つに切断された牛の作品は、日本でも大きな話題を呼びました。

    今回は、その鮫や牛、羊をはじめ、錠剤や吸殻を陳列棚に並べた作品や色とりどりの水玉作品など、彼の全キャリアを一渡りするはじめてのエキシビジョンです。

    わたしにとって目新しかったのは、繋がったふたつの部屋のインスタレーション作品-「In and Out of Love」。

    そこに入るためには、また並ばなくてはならないのですが、待ちのあいだに、ひとつの部屋を見ることになります。壁には8枚の色鮮やかなパネル、そこには死んだ蝶が貼り付けられている。

    部屋の中央のテーブルの四隅には、タバコの吸殻でいっぱいの灰皿。やがて列が進むと、湿気がコントロールされたもうひとつの部屋に招かれていく。なかに入ると、たくさんの蝶が飛び交っています。

    壁面には白いキャンバス。よくみると蛹がついていて蝶が孵化した証跡が残っている。中央のテーブルの四隅には、果物や砂糖水でいっぱいの皿。蝶たちが群がっている。

    これは1991年のソロ・ショーの時の作品です。彼が一環してテーマにしてきたのは、明らかに 「生と死」そして、「美しいものと不快なもの」 コンテンポラリーアートの最前線としてデヴューを果たしたのに、実に古典的なテーマです。

    では、なぜあれほどまでに社会を騒がせたのかといえば、もう彼のセンセーショナルな表現法に他なりません。

    確かに暴力的で美しくもある。彼を時代を代表するアーティストに仕立てたのは、自己プロモーションであって、それを通して彼がいわんとするメッセージは、全くもって伝統的でストレートです。

    有名になってから彼はよく自分の手を動かさないで、アシスタントを使って制作していることを批判されます。

    同時開催されている草間弥生もそのことを指摘していました。

    でも、わたしには、そのあまりのストレートさが、彼のアートをうすぺらなものにしているのではないかと思うし、そのことの方が、そしてそれに容易に扇動される社会の方が、むしろ懸念されるのです。

    まあ、ダミアンの思惑通りということか・・・

    2012.4.6

  • 美術館で、イラク女性に声をかけられた。

    展示ギャラリーの中心に置かれた鉄の塊、元の形を留めないほどにクラッシュし、焼け焦げた車両。

    これは一体何を意味するのだろうかと、さらに近づいていった時、ひとりの女性に声をかけられました。

    「2007年に、バクダットの中心部で爆破された車です。

    この車が停まっていた本屋街もブッとびました。ターゲットにされてたんです。

    わたしも、実はバクダットに住んでいて、家族もいるんですが、つい先週も・・・」

    ところが、わたしのほうは、このイラク女性が一体誰なのかが気になってしかたありません。そのうちに、彼女が居合わせた来館者でもなければ、館のスタッフでもなくて、「作品の一部」であることが、了解されました。

    このよう鑑賞者に声をかけて、ディスカッションを「起こすこと」、それが「It is what it is」という題の「作品」なのだと気付いたのです。

     部屋の片隅にはソファがおいてあり、テーブルの上にはイラク戦争に関するパンフレットや写真集があります。向こう側の壁には、イギリスとイラクの地形輪郭線が描かれ、互いの都市名があべこべになって書きこまれている。

     いずれにしても、これが「美術館」という場でなければ、街角の反戦キャンペーンだと思われても、ちっとも不思議ではない。しかし、これはロンドンのヘイワード・ギャラリーで行われている、コンテンポラリー・アート展なのです。

    この展覧会をしかけるのは、ジェレミー・デラー、ロンドン生まれのアーティスト。2004年にターナー賞を獲得した時には、ビデオなどのアーカイブを使って、サッチャー政権時代にヨーク州で起きた炭鉱夫たちのストライキを再現しました。

    そして、これは一体「ドキュメンタリー」なのか「アート」なのかと、社会を騒がせる結果になったのです。

     デラーは、芸術活動のはじめから「アート」の定義に対して真正面から取り組んできました。ある意味、表現形態に固執しているダミアン・ハーストなんかより、ずっとラディカルではないかと、わたしなどは思うのですが・・・。

    いずれにせよ、デラーの挑戦は、単に、階級闘争や戦争問題に注目した社会派芸術だとは言い切れないものがある。むしろ、根底には「アート」の意味を問う提議があり、「美術館」という場への、

    そしてわたしたちの「鑑賞」行為に対する問いかけとも、自然に繋がっていきます。

    この作品が、ロンドンの帝国戦争博物館に置かれていた時には、違った意味が形成されたに違いありません。正直いうと、もう一度、同じ作品を見たいとは思わない。一度見れば、言いたいことはわかったと折りたためてしまう(デュシャンやウォーホールもそう)。

    その反面、デラーの作品は、わたしたちの概念と現実社会の間に偏在する「ずれ」を喚起するし、あるトピックについて違う角度から考えさせようとする。そのアプローチには興味を覚えるし、これからも見守っていきたいアーティストだと、思うのです。

    Jeremy Deller at Hayward Gallery  ~13.05.2012

    記事:2012.3.31

  • ママンのいる家:ルィーズ・ブルジョワ@フロイド・ミュージアム

    ロンドン北部の閑静な住宅街。フロイド・ミュージアムの前庭は桜が満開です。
    ここは、精神分析学の父ジークムント・フロイドがナチス配下のウィーンから逃れて家族と供に移り住み、晩年を過ごした家。

    ヴィクトリア期の家には彼の日常の面影がそのまま残された
    常設展示事体が面白いだけではなく、革新的な特別展示もしばしば仕掛けられ、目が離せないミュージアムです。


    その大半は、フロイドの業績や影響と関連のある美術展示で、
    しかも興味深いことに、常設展示やドメスティックな空間とコラボレートするように展示されるのです。

    今回は、フランス(後年はアメリカ)の現代作家、ルイーズ・ブルジョワでした。東京の六本木ヒルズにある巨大な蜘蛛の彫刻で御馴染みの方も多いでしょう。

    展覧会の企画を知った時、これは逃せないと思ったのですが、
    期待にたがわず、分析医の日常が彫刻家の作品と響きあったり摩擦したりするたいへん刺激的な内容でした。
    また、美術館や大都会の屋外に置かれるのとでは、異質の光が当てられていることで、ミュージアムという「スペース」そのものについても考えさせられることになったのです。

    例えば、フロイドの仕事部屋。
    ここには一点だけ、ブルジョワのブロンズ像があるのですが、すぐにそれをみつけることはかなり難しい。あなたの目は部屋全体に捕らわれてしまうから。


    壁一面の書棚から、大きな机の上、患者のためのソファー、暖炉周り、大小の飾り棚には、世界各地から集められた様々なもの、神像とかマスクとか絵画とか壷とか、好奇心をそそられるオブジェの数々が、脈略なく所狭しと並んでいる。
    部屋全体がヨーロッパルネサンス期の「驚異のキャビネット」のような独特な雰囲気で包まれているのです。

    そんな中に、これまた有機的で奇怪なブルジョアの彫刻作品があるわけですから、空間にすっかり溶け込んでいて、フロイドのコレクションかと思っても不思議ではない。


    ところが、いったんそれを見つけけるや、
    ふたつの奇妙な遭遇に立ち会っているあなた自身に、いきなり気付くことになるかもしれません。

    ブルジョワの作品は、「Janus Fleuri」とタイトルされています。
    頭の前後にふたつの顔をもったヤーヌスです。彼女の仕事は、幼少時からのトラウマや家族との関連のなかで語られることが多いのですが、精神的な問題に生涯悩まされ、NY時代は、まさにフロイド派の精神分析医の患者でもあったことは、わたしも初耳でした。

    美術作品を解釈する際に、そうした作家の背景をどのように重ねながら鑑賞すべきなのか、わたしなど戸惑ったりすることも正直あるのですが、今回の展示は、その背景をいやおうもなしに突きつけてくるセッティングになっていました。しかも、フロイドミュージアムでのこの企画は、彼女が生前から意図したものだという。

    ここには、二項対立がまざまざとあります。
    医者と患者。男性と女性。父親と娘。
    時に軋轢や衝突を生み、深い傷にもなりうる関係です。
    患者が座るソファー近くにぶら下がったブルジョワの作品そのものが、ふたつの顔をもつ守護神をモチーフとしていることも、見るものの連想を促します。顔のようでもあり、性器のようにも見える。

    これは自分の自画像だと、彼女自身が語ったとか。そのかおがスタディルームの天井から所在なげにぶら下がっている。
    フロイドの空間の中にあるからこそ、存在の引き裂かれた不安定さや、バルナビリティ、「なにものでもない」という空虚が漂ってくる。

    その反面、矛盾するようですが、彼女の作品に奇妙な親しみを感じる空間でもありました。それは、展示された場が「家族の住まう家」だったからだと思うのです。たとえそれが精神分析学者のものであれ。

    彼女のテーマは、ジェンダーなどの社会問題にまで及びますが、それ以前に家族というもっとも身近なところ、家という環境のなかで生まれたことを思い起こさせます。


    もしや、いつものように、美術館の何もない白い展示室であれば、その印象は、もっとニュートラルな平坦なものだったに違いありません。

    果たして、フロイドの家の裏庭にも、あの「Mamanママン」が立っていました。他の巨大な彫刻に比べれば、中規模の庭にマッチしたスケールの作品です。
    さりとて大人の身長をゆうに超える雌蜘蛛です。
    彼女が腹に抱える卵には、手が届きそうで届かない。

    「ママン」はブルジョワにとっての母の肖像―強靭な母であると同時に、優しく保護する母です。
    テートモダンのあの壮大なタービンホールにも、挑戦的な姿を見せてくれました。
    テートのそれや六本木ヒルズの大型作品からは、母親のもつこうした二面性というよりも、そのスケールのせいか威嚇的な印象が先にたちます。

    でも、フロイドの庭の蜘蛛は、鉄の足と頑強な外観を備え、
    同時に慈しみを内包した、身を挺して全てからあなたを守るママンです。同じテーマをもつ作品なのに、こんなにも印象が違ってくるのは、作品のサイズだけではなく、ドメスティックなセッティングからくるからに他なりません。

    これまで出会った展示のなかで、今回のフロイド・ミュージアムでの展覧会が、ブルジョワ作品についてもっともよく考えることができた機会だったように思います。
    それだけではない。
    花曇の空の下、庭のベンチに腰掛け、蜘蛛のママンを眺めながら、数週間前にみたフロイドの孫、画家ルシアン・フロイトのポートレートについて思いを巡らしたり
    ―そう、彼にとっても、‘父親と娘’の関係が大きなテーマのひとつだったけ、はたまた、「美術館」という空間について改めて考え直したりしました。


    後者については、まだまだ言葉にまとまらないけれど、
    これからも、さまざまな展示に出会いながら、考えていこうと思います。

    記事:2012.3.24

  • くにの美術館とわたしの美術館:フィリップス・コレクション

    フィリップス・コレクション

    昨年末からこのブログに綴ってきたワシントンDCとボストンのミュージアム巡りの最後に、フィリップス・コレクションのことを書いておこうと思います。

    この美術館はルノワールの「舟遊びの昼食」をはじめ、世界的な名画が集まっていることで有名ですが、ここがアメリカで最初の現代美術館だったことはあまり知られていないし、
    歴史的・社会的な背景についてもまだまだ議論の余地があるようです。

    その誕生は、ダンカン・フィリップスという美術蒐集家が自分の邸宅を美術館として一般公開した1921年に遡ります。
    当時、アメリカ合州国が豊かになるにつれて、同じようなコレクターたちが自分のコレクションを公開する動きが膨れ上がっていきます。

    やがて、その多くは、経済的、政治的折衝の中で、国の機関すなわちスミソニアン博物館群の中に組み込まれていく。
    先日紹介したヒッシュホーン美術館も東洋美術を扱うフリーア・ギャラリーも、個人のコレクションから始まり、後に国に寄贈され、国立スミソニアン・ミュージアムのひとつになった美術館です。

    では、なぜフリップス・ギャラリーは私立ミュージアムとして残ったのか。
    実際にギャラリーの壁に並べられた展示作品を見ていくうちに、それが美術館の一般的な構成方法とは違う視点から作られたものであることに気付き、また、それが開館以来のコンセプトであったことを知ると、ここに謎解きの鍵があるのではと推測が浮かんできます。

    近代ミュージアムの展示法における王道といえば、時代や流派に沿った歴史的構成でした。
    1980年代以降、その従来の構成を見直し、さまざまな実験を始めたことは、このブログでも再三ご紹介してきたとおりです。
    それは時に共通するテーマであったり、共通する手法だったり・・・と。私は、勝手に「ポストモダン展示」と呼んでいますが・・・。

    ところが、フィリップス・コレクションは、開館以来一環して歴史構成を拒絶してきました。では、何を基軸にしてきたのか。
    一言で言えば、ギャラリー全体の審美的な響き合いです。

    例えば、私が2011年12月に訪れたときは、
    ジョセフ・マリオニというコンテンポラリー・アーティストのミニマニズムの作品が、
    セザンヌやシャルダンなどの作品とともに並べられていました。
    時代も流派もほとんど接点がありません。それらしきテーマも見当たらない。

    ギャラリーの壁には「Eye to Eye」とあります。
    配慮されているのは複数の作品が壁面に並べられた状態を見たときの、
    互いの組み合わせのあるいは全体からくるリズムや調和、目への心地よさなのです。

    それは建物の建築とも同調しています。まるで、自宅の空間を飾るような細やかな配慮です。ソファーに座りながら、しばらく眺めてみたくなる、そんな空間です。

    そういう展示からは、確かに、歴史的知識を得たり、美術の影響や発展を学ぶことは難しい。反対に、国家のミュージアムは歴史を重視し、国民を教育することに主眼をおいてきました。

    歴史的構成に意味がないわけではありません。
    ましてや、ミュージアムの教育的機能を軽視しているわけでもない。
    だけど、その方向性の中で、作品に接する自然な喜びが、損なわれてしまうリスクに思いをめぐらしてみるのです。
    自分の家庭空間の中で、歴史的な観点から作品を飾るなんてしないですもんね。
    大金持ちでないかぎり、構成するほど数がないか。
    いや、言いたかったのは、実は、そこに、フィリップスが自分の美術館を国に寄贈しなかった重要な要因があるのではないかということです。

    フィリップス・コレクションはその運営維持のために今でこそ入場料をとりますが、
    開館以来、長い間、無料で開放してきました。
    フィリップス自身の言葉によれば、彼が支援したのは、学者や流行を追う人々に左右されることなく、「美を追求する孤独なアーティスト、政治的影響力や職業団体に支援されていないアーティスト」でした。
    フィリップスは優れた鑑識眼の持ち主だったようで、集められた作品の中には、後になって社会的評価が高まったものが多い。

    そして、それら名画が美的な配慮によって構成されたこのギャラリーは
    「人々に楽しみを与え、生活を高め、本当の芸術家と同じように鑑賞できるよう手助けをするところ」
    であるべきだと考えられたのです。
    これらの言葉から、彼は、ミュージアムにパワーがあることも承知していたのではないか、
    だから、そこに政治的な介入が入ることにも抗ったのではないかと想像してみたりします。

    真相はどうであれ、振り返ってみれば、私が個人的に好きなギャラリーには、
    小さなプライベートの美術館が少なくありません。
    ワシントンDCに行かれたら、スミソニアン博物館群を見て回るだけではなく、
    そういう「わたくしのミュージアム」を訪ねてみられることをお勧めします。なんだかほっとしますよ。

    あ、備忘録のつもりで付け加えます。
    かつて、このギャラリーには、マーク・ロスコが設計した庭があったそうです。
    今は増築のために壊されてしまったのだとか。いったいどんな庭だったんだろう。

    2012.2.27

  • 愛が地球にたどり着く:草間彌生展@テート・モダン

    イギリス最大の現代美術館テート・モダンで草間彌生展が始まりました。ロンドンで、現役の日本人アーティストをこれだけの規模で扱った展覧会は、これが初めてです。

    展覧会は時代の流れに沿ったオーソドックスな構成で作られていました。草間彌生が10代の頃の、植物や昆虫をモチーフにしたシュールな作品から始まり、1950年代半ばNY に渡り、白とグレーの網の紋様を画面いっぱいに広げた「無限のネット」シリーズ、家具や靴やボートを男根のイメージで多い尽くした立体作品、男女のヌードに水玉模様を描きまくったハプニング、そして、日本に戻ってからのインスタレーション、近年の平面作品や鏡で覆われた暗い空間を蛍光の水玉で埋め尽くした作品まで総合的に展示しているのです。

    80年代に私がはじめて草間の男根ボートの作品を見た時、あまりよい印象をもてませんでした。不快感すら覚えたといった方がよいかもしれない。そういう出会いは時に不幸です。それ以来、草間の名前を聞いても触手が動かないから。

    しかし、今回の展覧会で、私の最初の印象が、実はアーティスト自身の制作のモティベーションだったことを知り、新鮮な目で見直すことができました。彼女が子どもの頃から罹った精神分裂の症状や家族関係における傷についてもっと理解を深め、内面から作り出した作品の数々を網羅的に見ることができたのです。

    草間が彼女を強迫する「もの」たとえば、彼女のヴィジョンに表れる水玉や男根に押しつぶされてしまうのではなく、逆手にとって、自分が主体となり、自分の手で「それら」を無数に創りだし、世界を覆い尽くすことによって、自身の表現に昇華させている、そのことに驚愕すら覚える。

    放っておけば自己が潰されてしまうほどの弱さを強さに変える、幻想をアートに変える、といったらよいのでしょうか。自分が自分の世界で潔く生きていくことを肯定する、そして、それ以上に、それを他者に対しても開いていこうとする

    ―それが、彼女が語る「宇宙の物語を連れて、愛が地球にたどり着く」ことなのではないか。

    作品に対する評価では、ポップアートの文脈で語られることが多いようです。今回の展覧会でもそのような範疇で括っているレヴューがいくつかありました。確かに、彼女がNYで活躍した60年代は、アメリカでポップアートが生まれ、大きな潮流となった時代でした。草間も、ウォーホールやオルデンバークなどといっしょに展覧会をしています。

    もちろん互いに影響し合っているのは疑いの余地もありません。だけど草間は他のポップアートの旗手たちのように、戦後訪れた大量生産・大量消費の社会に対するアーティスティックな反応として、増幅するイメージを表現したのではないはず。

    同じモノの繰り返し、単純な形、鮮明な色という外観については、共通点が多いのは確かです。視点を変えて、モノに溢れているという社会状況も、草間が陥っている精神状態と似通っていると言えるのかもしれない。

    しかし、ウォーホールたちは、そうした社会状況を自覚し、それに対してある距離をもって、彼らのアートの言語にしました。草間の場合、強迫観念は子どもの頃から自分の内面に棲む魔物です。そして、それに対して孤独な戦いを挑んできた。戦いの手段がアートであり、その結果もアートだった。それは想像を絶するような壮絶で、しかも終わることのない戦いでしょう。そこにあるのは草間にしか作れない世界です。

    展覧会場は、平日の午後にもかかわらず、大変な人で賑わっていました。イギリスの人たちは草間彌生の世界をどんなふうに旅するのでしょうか。わたしはTate初の日本の現代アートがJ-popでなくてよかった、しかも女性作家でよかったと、ひそかに思うのです。


    記事:2012.2.18