投稿者: Opekepen

  • ピナ・バウシュヘのオマージュ:Pina 3D

    80年代の終わりだったか、始めてピナ・バウシュのダンスを見た時の衝撃がきのうのことのように思い出されます。

    あの時も映像だった―「カフェ・ミュラー」。バウシュは、ダンスと演劇を融合させたことで世界的な評価を得たわけだけど、私の感動はその観点からではなく、むしろダンスの動きそのものからくるものだった。

    それまで私が知っていたダンスは、鍛えられた身体の、円弧を描くようなスムーズな動きや調和、リズム、力強さで表されるものでした。

    しかし、バウシュや彼女が率いるヴッパタール舞踊団の表現は、それとは全く違う。調和を拒絶してみることから始まるダンス。ある体の動きから、ふつうならそうは繋がらないだろうという別の体の言葉が紡がれていく。

    そこには、動きの不器用さ、病的ともいえる痙攣・反復、たどたどしさ、自分でコントロールできないほど「もどかしい身体」そのものが、あけすけに表現されていた。

    また、そこで表される人間関係も、けして陳腐な展開ではない。むしろ、衝突や葛藤、自虐、あるいは受容などがエンドレスに語られ、あまりに日常的だからこそ、いとおしささえ感じた。

    そうした動きや関係性の緊張からひとつの詩が生まれる。緊張が解き放たれたときには、ユーモアが弾き出される。バウシュは、そうした諸々を慈愛で包み、身体の強さと弱さを、存在の重さと軽さを、みごとにダンスの世界に表したのです。

    2009年夏、バウシュは他界しました。同国の映画監督、ヴィム・ベンダースは、長年の苦闘のあげく、彼女へのオマージュをフィルムに納めることに成功しました。「Pina
    3D」です。

    ここに描かれたバウシュの世界はどれをとっても感動的なアーカイブです―舞台の内も外も。しかし、黒子役に徹したベンダースの映像もまたすばらしい。

    彼自身が言うように、3Dというテクノロジーを使ってしか、彼女の舞台を映像に再現することは不可能だったのでしょう。と同時に、そのテクノロジーという手段を見る者にほとんど意識させることなく、バウシュへのオマージュを彼独自の映像空間のなかに作り上げています。

    ところで、映画の最後に、舞台の小さなスクリーンに写るのは、「カーネーション」の時のバウシュのソロではないかしら。大阪の舞台もピンクの花で埋め尽くされていましたっけ。

    地平線の向こうに

    黒い母がいる

    たった一人で立っていて

    魚のように

    手を振っている (1998.魚たちのダンスから Yuuki)

    記事:2012.2.11

  • 戦争を語る展示1:国立アメリカ歴史博物館

    博物館は、過去に起った出来事の真実について、客観的かつ中立的な立場で描くことを目指すものです。しかし、この理念の達成は至難の業、いや、不可能といってよいくらいかもしれません。

    どんなに多角的な視点からものごとを見ようと、無限に存在するもののうちから、あるものだけを選択し、ひとつのストーリーを描くという表象作業には、どうしたって主体的なまなざしが入り込んでくるからです。

    特に展示テーマが戦争である場合、たとえそれが国立のミュージアムであっても(いや、だからこそ)さまざまな軋轢や葛藤が生じます。その問題を深く考えさせられたのは、ワシントンDCにある国立アメリカ歴史博物館の展示でした。

    確かに、この厄介なテーマに少なくとも取り組もうとしていることは評価できるのかもしれません。その点、戦争の過去に対しては、まだまだ及び腰の日本のミュージアムよりも開けているといわざるを得ない。

    そうではあっても、しかし、落胆してしまいました。理由を端的にいうならば、戦争の負の部分については消極的にしか触れておらず、戦争をしたことが結局は意味のあることだったかのような語り方がなされているからです。少し長くなりますが、おつきあいください。

    戦争の展示は、当館でも最大のスペースを占めた「自由の代価」という名のギャラリーにあります。展示は時間構成。それに沿って歩けば、独立戦争に始まり、インディアンとの戦い、南北戦争、二つの世界大戦を経て、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争までを見るようになっています。

    まず、「自由の代価」という名から、わたしは首を傾げてしまいました。「自由」こそは、独立以来アメリカが国家の美徳としてきた精神ですが、いったい戦争は自由の為に払われる代価なのでしょうか。いったい誰のどういう自由だというのでしょうか。その名がまだ馴染むのは、強いていうなら、最初の独立戦争だけではないか。

    それ以外の戦争について、なぜ始めたのかと問えば、終局的には略奪であり、自分たちに都合のよい権力のためであり、利益や金のためでしかありません。イラク戦争がよい例です。イラクに戦争をしかけたのは、独裁に抑圧されたイラク国民を「自由」にするためというのが大義名分ですが、湾岸戦争以来、天然資源に関する覇権を握り、アラブの真中に自国の拠点を作ることが真の目的だったことは、広く周知されています。

    ついぞ昨年末に、オバマ大統領がイラク戦争の終結を宣言しましたが、軍隊は撤退しても、アメリカが退いたわけではありません。私的な戦争屋(旧BlackWaterなど)の兵士たちがたくさん残留し、影響力を維持しています。(アメリカにおける兵士や兵器関係のプライベート会社の成長は著しい)オイル・マネーも水面下で動いていることでしょう。イランへの威嚇にはもってこいのロケーションです。

    では、この博物館はイラク戦争をどう描いているのか。展示コーナーにあるのは、砂漠戦の兵士のユニフォーム、フセインの王宮にあったグラス、戦死したアメリカ兵のバイブル、反戦キャンペーンのバッジなど。解説は、イラク戦争のことを淡々と語り、アメリカ国民の反対があったことも示しており、政治的に中立の立場から書いているようにみえます。

    では、イラク市民の目からはどうなのでしょうか。わたしが特に違和感を感じたのは、従軍アメリカ兵の写真と言葉の横に、総選挙に投票にいったイラク市民のうれしそうな顔を映した写真が並んでいることでした。いかにも、この戦争はイラクの人々の「自由への代価」だったのだといわんばかりです。

    確かに独裁体制を打倒しデモクラシーへ道筋をつけた?・・のかもしれない。しかし、その裏でどれほどのイラクの民が殺され、傷つき、家族や住まいを奪われたか。劣化ウラン爆弾のおかげで、将来にわたっても人々が苦しまなくてはならないのか。そのことにはなにも触れていないのです。

    同じような表象は、翻って、太平洋戦争のコーナーにもみられました。いくつかの展示については、中立的な表象をしているようにみてとれます。たとえば、戦争中、在米日本人が迫害された様子について丹念に描かれている。東京など大都市における空襲や広島長崎のことも、ちゃんととりあげている。アメリカ兵士の声、天皇の声明、広島の被災者という証人の言葉もある。解説パネルは、ジャッジメントを控えた、事実を淡々と語る文調で書かれています。

    しかし、ここにもアメリカの言い訳が見え隠れする。たとえば、原爆投下に対する説明はこうです。

    まず、この投下がトルーマン大統領の個人的な判断によるものだとあります。

    そして、いくつかの都市での空襲にもかかわらず、日本は降伏しなかったこと。その間、アメリカ側も硫黄島や沖縄、そして日本の特攻隊による軍への攻撃でアメリカ側が甚大な損害を被ったことが書かれ、やがて、広島、長崎の原爆投下。そうして「日本は降伏した」のです。この文脈から読み取れるのは、「原爆が戦争を終わらせた」という見方ではないでしょうか。

    展示のバックには、投下直後の広島の航空写真があります。だけど、きのこ雲の下にいた人々の悲惨さを伝える写真や生々しい言葉はない。被爆者の痛みは抽象的なものとしてしか知覚されないのです。そして、展示は、来館者に思い巡らす隙を与えず、すぐに「勝利」のコーナーへと続いていく。ややもすると、原爆のあとに平和が訪れたという印象を受けかねません。

    ここでは、勝利に酔いしれるアメリカ国民だけではなく、戦時中、日本の植民地だったアジアの人々が解放された喜びを伝える写真や、アメリカ兵への感謝のメッセージが展示されています。そう、イラクの場合と同じですね。

    この展示ギャラリーに一貫してあるのは、最大の美徳である「自由」をもたらすために戦争をするアメリカです。それが他国の人の自由であってもです。展示が独立戦争から始まる構成をとっているのは、そのレトリックを使おうという意図があったからではないかと疑いたくなります。しかし、ここには戦争によって自由を奪われた人々の視点はありません。、戦争の真の目的はみごとに隠蔽されています。

    国のミュージアムだもの、国家がしかけた戦争に関して否定的に書くわけがない。自らを否定的に表象するなんてありえない。そう思われるでしょうか。確かに、自分の負の部分をみるのはだれでも勇気がいります。しかし、それが、ほんとうの自分でしょうか。マイナスの過去をきちんとみつめ、語り合わなければ、ほんとうの意味で開かれた自己、過去から学ぶ自己を獲得することはできないと思うのです。

    記事:2012.2.5

  • 親密な風景:デビット=ホックニー展@ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ

    親密な風景:デビット=ホックニー展@ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ

    青々とした木立が並ぶ赤い道は、画面中央を遠く地平線まで伸びていく。その道に沿って、夥しい数の伐採された材木が黄色い体を横たえている。傍らには、材木と対照的に描かれた1本のむらさき色の切り株。切り株は、まるで仲間を見送るかのごとく不器用に腕を伸ばしています。

    これは、風景画じゃないな。デビット=ホックニーの作品「木々とトーテム」を見たとき、わたしはそう思いました。ギャラリーの壁を占領するほどの大きな油彩画は、どうみたって風景画です。でも、そこに描かれている木々や切り株からは感情が沸々と湧き出ているのです。

    LAを拠点とするデビット=ホックニーは、近年、彼の故郷、イギリス・ヨーク地方の平凡な田舎風景の制作に取り組んでいました。この展覧会は、その作品群を紹介するものです。

    それらの作品には、とんでもなくビビットな色が使われ、形もぐるぐるにデフォルメされている。風景画といえば、一般的には自然のハーモニーを映し出すものと理解されますが、大いなる逸脱。いや、実に、ホックニーらしい。

    こんなに自然を歪めて描いたのなら、地面が描けてないというか、地に足がつかない嘘っぽい作品になるか、さもなければ抽象画になってしまうわけですが、

    ホックニーの魅力は、そんなにデフォルメしているのに、まるでわたしもそこに立っているような不思議な感じをうけるのです。外光のきらめきや、うつろう影や、気まぐれな風や、木々の匂いや、新鮮な空気などが伝わってくる。

    どうしてだろう。

    ギャラリーを巡り、ひとつひとつの作品を見ていくうちに、少しわかったような気がします。それは、ホックニーが風景に登場するひとつひとつのキャラクターに、いやその風景全体に、自分の心を寄せているからではないでしょうか。

    なんだか当たり前のようにも聞えますが、その寄せ方がタダナラヌのです。大きな画面は最終的にはスタジオで仕上げられたもの。だけど、彼自身が「全てはスケッチブックから」というように、何度も何度も同じ場所に通い、同じ木々を、同じ道を、同じ地面のうねりを観察し、手を動かし、そのイメージを自分のイマジネーションの中で再生して、キャンバスの上に落としこんでいく。

    もちろん、そこは彼が生活を通して慣れ親しんだ故郷であるという素地もあります。だから、あのムラサキの切り株だって、まるで古い友人のように画家のなかに生きているのではないか。これはもうポートレイトです。

    ホックニーといえば、プールサイドの彼の恋人や友人たちを描いた作品が有名ですね。わたしのお気に入りは、ナショナル・ポートレイト・ギャラリーにある彼の両親を描いた絵です。ホックニーの風景画にも、それらと共通した本質があるように思えてなりません。

    それは、英語でintimacyというものではないか。日本語では、親密と訳されることが多いのですが、ちょっと物足りない。intimacyは、もっとプライベートな関係性(性的な意味が含まれることも)を意味するように響きます。

    人間関係だけではなく言葉や土地にも使われます。それは、心を寄せる、シンパサイズすることから生まれる関係性です。今回の展覧会についてメディアは、ホックニーがiPadを使って描いた作品を展示していることにも注目しています。

    でも、わたしにはどうでもよいのです。たぶん、ホックニーもそうでしょう。テクノロジーは道具にすぎない。彼にとっては、新しいスケッチブックのようなものに違いありません。

    描く対象とのあいだにintimacyがあれば、どんな道具を使おうと、アーティストの表現のなかに表れてくるのだと、iPad作品を見て思いました。

     ホックニーは、再び大きなチャレンジに挑んでいます。それは、彼の第二の故郷、カリフォルニアのヨセミテの自然を描くこと。その壮大さを再現するには、iPadという道具が有効なのだそうです。

    彼が、人間の感覚を越えた荘厳なヨセミテの風景を、いかにintimacyをもって描くのか、とても楽しみです。

    記事 2012.1.29

  • インタープリテーション・ガイド?:ヒッシュホーン・ミュージアム

    インタープリテーション・ガイド?:ヒッシュホーン・ミュージアム

    また「アンディー・ウォーホール」かァ、
    向かいのナショナル・ギャラリーでウォーホールの別の特別展を見たばっかしだし。
    ウォーホールなら、別に実物みたところでどうってことないしなぁ。

    てな感じで、DCのヒッシュホーン・ミュージアムでウォーホールの特別展をやってると知った時、気乗りがしませんでした。
    でも、時間もあるし、せっかくだから行ってみっか。

    なんと無礼な・・・いやミュージアムのお客さんはコンナもんです。

    展示室の入り口には、《Shadows》とあります。
    なんでもない壁を撮影して、その複製を何枚もつくり、
    違う色を施した作品群を並べるという、典型的な作品です。
    ギャラリーの白い壁に同じ大きさの「Shadow」の複製がズラーと横一列につながっていました。円筒形の建物で内壁も曲面になっているのですが、
    そのせいか、展示全体が見渡せない反面、どこまでも続いていく感じがするのです。

    「ここ写真OKかなあ」
    そう呟きながら足を進めると、
    展示壁の反対側に黒いタートルセーターのお兄さんが立っているのが目に入りました。
    警備の服装ではない。でも館のスタッフみたい。
    あのお兄さんに聞いてみよう!

    と思いきや、彼のほうからこちらに近づいてくるではありませんか。
    すてきなお兄さんが近づいてくるなんて、なんてすてきなギャラリーだろ! しかもですぞ、なんと彼のほうから声をかけてきた!

    「どうですか?この展覧会、どう思いますか?」
    へ?
    来館者調査か?…そんな感じもしないけど。(実は私、調査をしたことがあるので、直感でわかるのです)
    お兄さんはニコニコしています。
    その首からは青いクエッションマークとアンドリューという彼の名前がぶら下がっています。興味津々。私は、アンドリューにもっと大きなクエッション・マークをつけました。

    でも、「髪型かっこいいね」なんて言えないから・・・。
    「とってもウォーホール的で面白いですね」トカナントカ、口は勝手にしゃべってる。
    頭のなかはお兄さんへの??????が膨らんでいく。

    「この絵、ずーっと続いてるの?」
    「そうなんです。102枚」
    「わあ、スッゴい。しかもこのギャラリーのスペースにあってるウ」
    「でしょ?歴史的に初めてなんですよ、全部展示するの」・・・

    そろそろ、わたしの番に切り替えてもいいかシラン?
    「あのお、質問してもいいですか?」

    「もちろん!なんでも!」
    「あなたのことなんですけどオ」
    「・・・?」

    彼はとても気さくなひとで、わたしの質問にもいやな顔しないで答えてくれました。
    アンドリューの肩書きはインタープリテーション・ガイドというのだそうです。
    インタープリテーションとは日本語で解釈と訳されます。
    彼らは、作品や作家について基礎的な勉強をしてはいますが、
    一方的に解説をするツアー・ガイドではありません。
    作品の解釈は十人十色。
    その見方を基本的に尊重しつつ、会話をすることで、お客さんの鑑賞をさらに豊かにするお手伝いをするんだそうです。
    一人の世界に籠もって楽しんでいる人にとっては、うざったいかもしれません
    。でも、わたしのように、ただぞんざいに(?)ボーと眺めている鑑賞者は少なくないはず。彼らに声かけられることで、確かに頭のなかが刺激される。

    そのことは、実際私自身が来館者調査をしたときにも発見したことでした。
    調査の目的は、もちろん、どんな人々が美術館にやってきて、
    彼らはどんな体験をするのかを客観的に調べることです。
    展示の前で心に浮かんだことを何でも口にしてもらって、それを記録する質的調査もしました。

    調査が終わった後、協力していただいたことに感謝したら、
    彼らに感謝され返されたことが、実は少なからずあるのです。
    一人で見てたらこんなにいろいろ思わなかったかもしれない。
    あなたという聞き手がいたから鑑賞が深まったと。

    そんなふうに、だれかそばに人がいることで、(たとえその人が聞くだけだったとしても)
    なんらかのコミュニケーションが生まれ、それが作品とのコミュニケーションをより活発にするのでは。
    このインタープリテーション・ガイドは教育部門の下にあり、数年前から始まったのだそうです。イギリスでも今回のボストンとDCの旅でも、とにかく私の知る限り、そういう試みを見たことがありません。

    とにかくも、この試みは、
    美術館はみんなが静かに鑑賞する聖域か、活発な会話が生まれるフォーラムか
    ―というミュージアム学ではよく知られた疑問にも結びつくのかもしれませんね。
    ウォーホールさん、どう思います?

    記事:2022.1.22

    追記:実はここでみたウォーホールの《Shadows》が、たいへん意味深い彼の渾身のプロジェクトだったということを、10年後にNYを訪れた時に知るのです。

  • 千客万来か至福の時か:レオナルド・ダ・ヴィンチ展@ナショナルギャラリー

    ルネサンス美術の最高峰に讃えられるレオナルド・ダ・ヴィンチ。14点しか存在しない彼の作品(油彩画)のうち、なんとその半分以上がロンドンに集まった。これだけの作品が一度に見られるのはこれが最初で最後かもしれない―そんな触れ込みの展覧会「レオナルド・ダ・ヴィンチ − ミラノ宮廷の画家」が、11月9日からナショナル・ギャラリーで開催されています。

    これぞギガ・ブロックバスター展!クリスマスの飾りつけでにぎわったロンドンのトラファルガー広場は、いつも以上にフェスティヴな雰囲気です。それをはじめて知ったときのわたしの内心は、「うわあ、すごい。でも、もしこれが日本で開かれたとしたら、ゼッタイに行かないだろうな」というアマノジャクでした。もちろんダ・ヴィンチに興味がないわけじゃあない。そうではなくて、展覧会場での体験がどんなものになるか簡単に想像できるからです。

     そもそも列に並ぶのが苦手なうえに、人気に酔いながら、頭越しにほんのつかの間垣間見るだけなんて、そういう出会い方をしたくない。それが外国から借りられた作品なら、たとえお金払ってでも収蔵館での豊かで特別な出会いがやってくるのを待つ方がずっといい。美術館体験はまさにわたしの主要な研究テーマですが、そんなのは棚にあげて自分のことになるとそんな感情に速攻忠実になるのです。

     じゃあ、なんで「もし日本で開催されていたら」であって、ロンドンのナショナル・ギャラリーでならいいわけって、思われるでしょう? それというのも、実は、この展覧会が来館者との出会いの空間にもっと配慮していることがわかったからなのです。集客数がとても高くなることはもちろん織り込み済みでした。だから、入場数を制限するシステムが最初から導入された。つまり、日時限定の前売り券をネットなど通して売り出し、会場内の混み具合を抑えたってわけ。

     もちろん展示作品の保護や安全への対策の意味もあるでしょうが、芸術作品と来館者との出会いの時間がなるべく豊かなものであるようにという考慮が伺えます。このシステムの導入で、来館者は、冬空の下、チケットを買うために美術館の前に延々と並ばなくても済むし、なにより、芸術家の制作の息吹を身近に感じるだけのゆとりが、少しは期待できるはず。

     ○○展、何万人突破!なんて集客力を競うような姿勢はここにはありません。第一、ヘッドラインに来館者数が書かれた記事なぞイギリスではみたことがない。日本の大型展覧会の、来館者数=成功という考え方、そろそろ見直してもらいたいものです。まあ、日本の場合、そういう目玉展覧会は大手新聞社が主催することがほとんどだから、そこにも問題があるんだけど。

     もっといえば、そもそも、そういう大掛かりな展覧会ばかりが流行るという状況自体がおかしい。そういう展覧会には膨大な宣伝費が費やされ、それに乗せられた人々がミュージアムの前で長蛇の列をなす。片や、地味だけどよく創られた展覧会なのに、人がぜんぜんはいっていないという両極現象が目につきました。こういうのをポピュリズムというのでしょう。ひょっとしたら、これは展覧会をつくる側の問題だけではないのかもしれませんね。

     さて、ダ・ヴィンチ展に話を戻せば、買わなきゃって思ってた前売り券、展覧会オープン2日目にしてなんと完売になってしまっていた。いやはや、イギリスも日本と負けず劣らずなのか、それともダ・ヴィンチ力のなさる仕業か。だが、しかしです。たぶんそうなることも計算されていたに違いない、毎日当日券(500枚)を販売するのだそうです。それを手に入れるためには長い列に並ばなきゃいけません。早朝に肩を震わせながら並んでる自分の姿が目に浮かびます。もしうまく見ることができたとして、期待が裏切られないことを祈りつつ。また、このブログでご報告することにしましょう。

    そして、行ってきました!

    記事:2011.11.14

  • 楽しき列並び:レオナルド・ダ・ヴィンチ展@ロンドン・ナショナル・ギャラリー

    あけましておめでとうございます。ちょっと、ブログの書き込みをするのをサボっていたら、年が明けてしまった。ボストンとDC紀行もまだ途中なのに。。。

    でも今日は、なるべく早く報告しなくてはと思うことがあるのです。ロンドンのナショナル・ギャラリーで行われているレオナルド・ダ・ヴィンチ展です。中身についてではありません。チケットを入手するまでの経緯です。まだ、これから行ってみようと思っている人もいると思うので、まだ役に立つうちにご報告です。

    わたしは1月12日(木)に、パートナーと協力体制でチケットを入手しました。まず、パートナーが7時15分頃、センズブリー翼の横にできている列に並びました。早い人は6時に到着したそうです。だから、もうすでにけっこう列ができていました。

    8時ごろに館のスタッフが現れて、列のひとりひとりに声かけました。パートナーは、保証はできないけれどたぶん大丈夫だろうと告げられ、何人分のチケットが必要かと聞かれたそうです。一人当たり8枚までのチケットが手に入るらしい(当日券は500枚用意されている)。そうして、列に並ぶみんなに必要枚数を聞いて回り、後でなかのスタッフと計算したのでしょう。

    わたしは9時過ぎにパートナーとバトンタッチしました。その時わたしが見た列はさほど長くなかったのに、少々驚きました。パートナーは、列全体の前から3分の2ぐらいのところに立っていたのです。後で話したのですが、おそらく、8時の枚数調査で、ある程度の読みができ、列の後ろのほうの人々には、その可能性が告げられたのではないかと思われます。

    まず無理と告げられた人々は帰っていっただろうし、ひょっとしたらいけるかも、それでも展示場に入れるのは3時以降になります、と言われた人もいる。その位置に並んでいる人たちは、後から到着したちに状況を話してあげたのでしょう。そうして自然に列の長さは限られる。

     列に並んでいる間は、実は、けっこう楽しかった。わたしは本を一冊もって行ったのですが、それよりも、人を観察するのが面白かったのです。わたしのように読書をしている人もいれば、仲間とおしゃべりしたり、暖かいコーヒーやサンドイッチを買ってきて(そばに露店がある)朝食をとったり、

    そうこうするうちに、知らない人に話しかけたり、どこの美術展が面白かったとか意見交換したり、自然にコミュニティーができていた。いやあ、イギリス的だなあ。

    でも、それが可能なのも、チケットを手にするために待つことを始めから了解していたからでしょう。それよりも、世紀の大展覧会を見るためなら、2-3時間並ぶなんてたいしたことじゃないと思っていたからでしょう。

    列の最後のほうの人たちは不安だったかもしれないけれど、そうでなければ、まず大丈夫だろうとどこか安心していますから。

    簡易椅子や防寒の用意だけして、待つのを楽しめばいいだけで、待たされていることに不満を感じている人はほとんどいなかったようです。だから、リラックスしてコミュニティーまでできていたのかな。でも、そこには、ギャラリー側の配慮も手伝ったはずです。

    10時開館と同時に列が動き始めました。その動きはゆっくり。でも、ジリジリと動くのではなくて、10分間隔で止まっては動く感じ。その間、壁に寄りかかったり、本が読むことができた。建物の入り口についたのは11時すぎでした。

    入り口の警備員が人数調整をしていて、まとまったグループ毎に中にいれるのです(だから列がああいう動きをしたんだ)。

    いよいよ中に入れば、チケット入手は確実。チケットカウンターの前まで進むと、

    「3時以降のチケットが入手可能です」という立て札がありました。列が進み、いまやわたしはチケットおねえさんの前、

    「大人二枚」!

    チケットを買うとき、わたしの顔はにこにこしていただろうな。

    「楽しんでくださいね」とおねえさん。

    チケットには、「3時から3時半までに入館してください」と書かれてあります。11時20分、パートナーに報告して、3時まで、どこか美味しいランチにでもいこう。

     てなわけで、いやあ、楽しかった。

    小学生のとき、遠足のときはいつも興奮して、後から思えば、目的地そのものよりも、前日のお菓子の買出しやそこに向かうバスの中のことばかりよく覚えてたけど、なんか、それみたい?

    「レオナルド・ダ・ヴィンチ:ミラノ宮廷の画家」展は2月5日まで

    記事:2012.1.13

  • ランドスケープ・デザインとパワー:The Mall, Washington DC

    「歴史と国の機関がひとところにこれだけ集中した都市は、おそらく他にはないだろうな」―ワシントンDCの地図を机のうえにひろげて、心の中でそう呟きました。平面的な地図と記憶のなかのイメージをダブらせながら、旅を振り返えっています。

    中央に横たわるのは緑の帯。その東端には白いドームの国会議事堂、反対側にはギリシア神殿のようなリンカーン記念碑、その真ん中に聳えるオベリスクがワシントン記念碑、そしてその上方にはホワイト・ハウス。それらをランドマークとして、The Mallと呼ばれる緑地が広がる。それを囲むように黄色く塗られた建物とグレイの建物が立ち並んでいます。

    グレイは労働省・法務省・財務省・教育省といった政府機関の数々。黄色は国立スミソニアン博物館群をはじめとするミュージアムです。Mallの西側には、第二次大戦記念碑、ベトナム戦争記念碑、ルーズベルト大統領記念碑、マーチン・ルーサー・キングの記念碑などが転々としています。

    一望すれば、国家としての記憶、アイデンティティーを表象するミュージアムおよびメモリアルと、現在まさに稼働中の国家のエンジンが肩を並べていることが一目瞭然。過去や現在、動や静と、一見違う次元に属す場が並列しているように思えますが、そこを歩きまわり、今また全体を眺めてみると、ここには同じ力が充満しているのではないかと思えてなりません。国家というパワーです。

    地図を裏返すと、この首都の心臓部の簡単な歴史が紹介されています。この都市デザインが計画されたのは1790年代。1776年独立宣言のすぐ後です。最初は、国会議事堂とホワイト・ハウスとモールという三角形のエリアから始まりました。内外に一国家であることを示す標だったのでしょう。

    1800年代半ばには初代大統領ワシントンの記念碑やスミソニアン博物館が建設され、1900年代前半には、南北戦争後に再びアメリカを統一させたリンカーン大統領の記念碑が創られ、Mall が完成する。1900年代後半はミュージアム建築のラッシュです。当然、政治行政機関の建物も早い段階から議事堂やホワイトハウスの近くに建てられていきました。つまり、都市計画の最初から、政府動力と歴史を創る作業が同じ場所で平行して行われたわけです。

    このデザインには、建国そして国家統合という精神が表れているのでしょう。アメリカは歴史の浅い国だといわれます(この言い方も語弊を招くのですが)。ヨーロッパからの独立、異なるルーツをもつ人々の集合、南北戦争、アメリカ・インディアンや黒人との共生、移民問題。さまざまな課題に立ち向かい、国家を統合させるには、政治を動かすことと同様に共有される歴史を創ること、国の技術や文化の特異性を示すことが、非常に重要だと考えられてきたし、今もその考えが継続している。

    また、スミソニアン・インスティチュートの発展をおってみれば、アメリカ合州国がどのように国を表象しようとしてきたのか、その変遷が垣間見えてくる。揺籃期である1800年代後半のミュージアムは、伝統文化の保存というよりは、むしろヨーロッパに追いつこうと産業技術科学の発展に寄与するよう機能しました。1872年にはナショナル・ギャラリーが建てられますが、自国の美術を表象するより、ヨーロッパと並ぶような優れたコレクション(もちろんヨーロッパの)を収集し、その財力や文化力を示そうというものでした。

    しかし、第二次大戦後、表象のありようが変わってきます。アメリカの歴史や文化を表象しようとし始めたのです。たとえば、歴史技術博物館が歴史博物館になったこと、国立のアメリカ美術館やポートレイト・ギャラリーが設立されたことをみればよいでしょう。

    80年代以降にはまた新たな変化。アフリカ美術館が1979年にスミソニアンに組み入れられたことにはじまり、国立アメリカン・インディアン・ミュージアムの設立(2004年)に代表されるように、かつて蔑視されてきたマイノリティー集団の文化を、公平に表象しようと努力するようになったことです。このように、表象の対象やその中身、方法には、時代とともに変化があります。でも、その底辺に一貫してあるのは国家統合という精神だといえます。

    今回は、このモール周辺を中心に観て回りました。もちろん、それだけの価値があることは疑いありません。ただ、1日中ミュージアムの建物のなかで過ごし、そのなかで観てきた「アメリカ」は、やはり、国家が表象したいアメリカであることに違いはない。政治的な操作や歪曲もあるのでしょう。多様なアメリカ社会の日常や関心とは、乖離したり矛盾したことも多々あるに違いないと思うのです。

    そのような、たかだか表層的なアメリカでしかないことを承知のうえで、ミュージアムを通すからこそ見えてくる問題点、個別の展示や表象の仕方について、他者や国民との関係について考えたことを改めて書いてみたいと思います。

    記事:2011.12.16

    2026年現在。15年前に書いたこの記事を読んで、今、まさにこのスミソニアン博物館がトランプ大統領の影響下で逆転している:つまり「負」の過去を隠蔽し、多様性を抑えようとしている、動きをとても危惧しています。

  • 多様性を語ることVS来館者の体験:国立アメリカン・インディアン博物館

    アメリカ国会議事堂の目と鼻の先に、国立アメリカン・インディアン博物館があります。

    スミソニアン・インスティチュート(ミュージアム施設群)のなかで最も新しい博物館(2004年設立)なのですが、コレクションにはスミソニアン博物館史の初期(19世紀後半)、西部開発の流れのなかで、インディアンの文化・歴史や生活用品が「近代的な」視点から精力的に収集されたモノがたくさんあります。

    それらは、「人類学」とか「自然史学」の範疇にいれられる「標本資料」にすぎませんでした。当時の西洋植民者はネイティヴの文化を見下していたのです。では21世紀の博物館はどのように彼らを表象するようになったのでしょうか。

    常設展示は、「Our Universe」・「Our People」・「Our Lives」というギャラリーで構成されています。ひとつの展示室内は、外壁と同じ流線的な壁で仕切られ、曲がりくねった通路の隙間には蛸壺のような空間がある。全体が有機的な感じです。蛸壺エリアではある部族のことが、中央では白人との出会いなど全体に共通するテーマが語られています。インディアンを統括的に描くのではなく、その多様性をさまざまな視点から語ろうとしているのです。

    もうひとつの特徴は、古い顔と現在の顔を並べて紹介していること。たとえば、ある部族の伝統的な狩猟道具と、子孫たちが古い知恵にテクノロジーを加えている様子を並列して語る。昨今の民族系ミュージアムでは人々の今の様子を導入することが増えてきましたが、この博物館展示では、「現在」が展示の脇役ではなく、むしろ中心的な役割を果たしているのです。興味深かったのは展示づくりの最初からネイティブの人々が参画していること。展示ができた後もさまざまなアウトリーチが継続されています。

    当館の目的は、ネイティヴの人たちとの「パートナーシップ」を通して、インディアンの文化、その「過去と現在と未来」について理解を進めることだと謳われています。常設展示室にOurという言葉が使われているのも頷けます。このように表象される者が主体的に表象の過程のなかに参加すること、また、過去だけではなく、現在の社会問題なども含め、将来への展望について語ることは、1980年代以降の欧米の博物館の方向性なのです。それは、自文化中心的なグランド・ナラティヴを見直すポスト・モダンの潮流がミュージアムにも流れているといえましょう。

    博物館が従来の表象を自省的し、より民主的な開かれたアプローチに挑戦していることは評価されれべきですが、ここにはジレンマがあることも認めなければなりません。DCで出会った人々は、アメリカン・インディアン博物館をあまり評価してはいなかった。

    「沢山ありすぎてフォローできないのよね」「散漫な印象しか残らないんだ」「ホロコースト・ミュージアムはひとつの物語がはっきりしていて、深く感動するけどね」

    彼らの批判の要因が展示構成にあることは明らかです。ホロコースト・ミュージアムとは同じMall地区にあり、とても人気があるのですが、ひとつの流れをもつストーリー展示を採用しています。当館を見学した折、他の訪問客を遠目に観察していたのですが、ほとんどが展示を鑑賞することというより、あてどなく歩き回っている様子でした。

    この利用者の批判は、インディアン博物館のミッションと真っ向からクラッシュしています。多様性を示すため、現在の人々の声を生かすために、展示の構造や内容はどうしても複雑になってしまう。逆にいえば、これまでの反省にたったからこそ物語構成を採らなかったわけですから。

    ポスト・モダン的なアプローチは先進的なミュージアムによく見られるようになった反面、その手法が来館者の体験にマイナスに作用してしまうという共通の課題が生じるようになったのです。これを解決するのは至難です。しかし大事なことは、だからといって近代的な展示手法に戻ることではないし、反対にジレンマに目を塞ぐことでもない、個々のミュージアムが内容や来館者の反応を調査したうえで、それぞれに策を講じていくしかないのかもしれません。

  • 「踊り子の画家」へのアングル:ドガとバレエ展

    ひとりの画家に焦点を当てた「個人展」が、わたしは好きです。
    複数のアーティストを比較したり、芸術や社会を複合的に捉えたりする、いわゆる「テーマ展示」が盛んなご時勢ではありますが。

    「個人展」に惹かれる理由は、ある芸術家の作品ひとつひとつをじっくりと鑑賞し、その考え方や技法の変化を知ることができるだけではなく、制作の喜びや苦渋、家族友人との関係、彼・彼女が生きた社会、それが作品にどのような影響を与え、
    作品が社会にどういう意味をもたらしたのか、総合的にみることができる
    ―展覧会を見終わって、満足感を得ることが多いからです。

    振り返ってみると、こうした個人展はほとんどの場合が、
    一芸術家の制作の過程をなぞる‘時間軸’構成でした。
    そうでなければ、日本の美術館がよくやるように、「○○と同時代の画家たち」てな感じの、近い時代に活躍した芸術家たちの作品をいっしょに並べ、互いの影響を明らかにする手合いのもの。

    ところが、昨今ヨーロッパでは、
    時間軸とは違うアプローチで構成された個人展が開かれるようになりました。
    そういう新しいタイプの個人展は、腰の据わった取り組みのなかにも、静かな挑戦がみらるのです。
    ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで開催中の「ドガとバレエ」展がまさにそのような展覧会でした。

    「踊り子たちの画家」として知られたドガゆえに、「ドガとバレエ」という主タイトルはすんなり響きます。
    かたや、「Picturing Movement(動きを描く)」というサブタイトルは、展示の明確なアングルを示しています。
    つまり、彼が動きというものをいかに絵画という静的な表現に落とし込もうとしたかを、
    この展示はみようとしているのです。
    さらに興味深いことに、ドガが生きた時代に誕生した技術、写真や映画との関連も描いています。

    たとえば、「Mobile Viewing」という展示室の中央には、著名な彫刻「14歳の踊り子」が置かれており、
    周囲の壁には同じポーズをとった少女を360度違う角度から描いた素描が並べられていました。
    どのような視線で14歳の踊り子が捉えられ、彫刻に命を与えられたのかが読み取れます。
    その部屋の一角では、周囲に設置された多数のカメラで中心のモデルを捕らえ、
    撮影された複数の写真から彫刻をつくるという当時の実験も紹介されていました。

    「The Dancer in Movement」では、位置の定まった体に何重にも異なる手足の線を描いた素描や、ひとりの踊り子の別の瞬間の体の線が同じ画面のなかに展開する油彩画など、
    ダンスのムーブメントを平面に表そうとするドガのチャレンジが紹介されています。

    また、同じ部屋には、映画の第一人者、ルミエール兄弟の踊り子を映し出した作品が流れています。別の一室には、踊り子たちを写したドガの写真作品が展示され、
    撮影された踊り子と同じポーズを描いた素描や彫刻も並べられています。
    展示の解説にあるように、彼は写真や映画という新しいテクノロジーに対して、
    一定の距離をおきながらも、自分の芸術制作にその技術や対象の捉え方を取り入れようとしたのです。

    会場に入る前、入り口で展示構成の図をみたとき、
    実はわたしはいささか懐疑的でした。科学的な分析を取り入れることで、
    ドガの人間性がみえにくくなり、どこか血の通わない展示になっているのではないかと心配したのです。
    ところが、展示会場も終わりに近づいたときそんな心配は消えていた。
    ドガという芸術家に親しみを抱き、充実した読後感に酔いしれていました。

    なぜだったのか、日がたって考えてみるのですが、
    まず何よりもドガの視線に近づけたことでしょう。
    ひとりのモデルを描いただけの小さな素描をこんなにじっくり鑑賞したのは初めてかもしれません。
    線の強弱や、微妙な筆のリズム、手のひらでこすったような跡、
    踊り子のめくるめく動きそのもののなかに入り込まんばかりに食い入るドガの視線、
    それに連動した手の動きが感じられた。

    また、展示全体がざっくりではあるけれど画家の人生に沿っていることも原因ではないか。
    音楽を愛する若いドガが、踊り子たちの練習場や舞台に通い、
    彼女たちの動きや舞台の空気を表現しようとしたこと。
    30年以上も同じテーマを追い続け、
    そのなかで巡り合わせた写真や映画というテクノロジーとの躊躇いがちなしかし先見の明ある受容。
    晩年になって視力が衰え足腰が弱まり、もはや劇場に行くことすらできなくなっても、
    自分の記憶のなかで踊り子たちの動きを再生し、それを色の世界で表現しようとしたドガ。
    きれぎれになりがちな分析的構成の背後に、有機的につながった芸術家の魂が透けてみえる。

    彼は、なぜ、生涯にわたってバレエの踊り子たちを描き続けたのでしょう。
    当時のバレエダンサーたちは、現在のようにハイカルチャーではなく、むしろ社会の低層に属していました。
    富裕層出身のドガが踊り子たちを対象としたことが疎まれ、
    その構図は覗き見を思わせ猥褻だという批判の声もありました。
    彼が描いた「アブサンを飲む女」が、イギリスの印象派展ではじめて紹介されたとき、
    退廃的な題材だという理由で非難囂々だったことも重なります。

    踊り子を選ぶわけは、
    バレエが「ギリシアのムーブメントをよく表しているから」と、
    彼自身がこたえていることが、展示の最後のほうで解説されていました。
    彼の口からムーブメントという言葉が出てくるのは腑に落ちるとして、
    では、「ギリシア」とは何でしょうか。
    バレエとギリシアにはなんの関係もない。

    印象派の先駆けにあったドガが自らを「現代生活を描く古典画家」と自称していたことを知れば、「ギリシア」とは古典芸術を意味することが推測できます。
    ヨーロッパでは永年にわたって、ギリシア・ローマの古典が人間が到達した最高芸術だと考えられていました。
    つまり、ドガは、あくまでも正統的な芸術的探究に根ざしつつ、
    時間の芸術を非時間の芸術に表現しようという野心の火を静かに燃やしたのであり、
    そのためには、バレエの踊り子たちが最適のモデルと考えたのではないかと思うのです。

    死の二年前のこと。
    ドガは彼を撮影させてほしいという若い映像作家の申し出をはねつけました。
    断られた映像作家はひるまず、こっそりカメラを据え、
    パリの通りをステッキを持ちながらこちらに向かって歩いてくる80歳の老画家をフィルムにおさめました。
    展覧会の最後は、生涯をかけて「動き」を捉えようとした画家自身のゆっくりとした歩みで終わります。

    記事:2011.12.3

  • もうひとつのドガ:ボストン美術館

    2011.11.29-12.9まで、大西洋を渡ってボストンとワシントンDCを回ってきました。何回かにわたって、そこで訪れたミュージアムのことを記しておきます。

    まずは、ボストン美術館でみた‘もうひとつの’ドガ展―『ドガとヌード』のこと。ボストン美術館での展示は完全に「時間軸」展示になっていたという点で、旅の一週間前に訪れたロンドンのロイヤル・アカデミーでの展示『ドガとバレエ』よりも、オーソドックスなものでした。

    それでも、若いドガが美術館に通い古典作品を模写した時代のあとで、こんどは売春宿に通って、娼婦たちのヌードや水浴の様子をささっと描きあげた何枚ものスケッチの展示があり(これまであまり公開されなかった)、次に大きなヌードの油彩画へとつながっていく経緯をたどることができ、画家への理解が深まったように思います。

    対象も描き方も違うけれど、ドガにとっては生涯をかけて人体のフォルムを探究する同じ旅の途上だったことを、この展示は示していました。そして、そのことは、もちろん、ロンドンの美術館が提示してみせた踊り子たちの「動き」を追うドガのまなざしとも重なる。執拗さがアーティストを創るのだと、改めて感じ入りました。

     ただ、この展覧会でわたしが消化不良に感じたのは、なにがドガのアプローチを変換させたか(古典の模写から娼婦のスケッチへ)が不透明なままだったこと。それとも、美術史的にはまだまだ解読の余地があることなのか。だとしても、ひとつのテーマを執念に追い続けたこの芸術家にとって、そのことの意味は小さくははいはずなのだけど。

    また、フォルムがテーマとはいえ、娼婦の背中に浮かぶ憂いについてもほとんど触れていなかった。たしかに、人体に距離をおいてアプローチしようとしたドガではありますが(だからこそ、覗き見的だと、逆に非難されたのでしょうが)、モデルの顔を描いたほかの作品をみれば、あるいは、顔の表情がなくても使われた色合いやタッチから、この画家が科学的な視線からだけ人物を描こうとしたのではないことがわかるのです。このあたりのことを考えさせられる要素が展示にあったら、もっと面白かっただろうにと思った次第です。

    ともあれ、二つの美術館、別のテーマで、立て続けにドガをみたおかげで、この芸術家にますます興味をもったのは言うまでもありません。もちろん、展覧会の描き方によってみえてくるドガ像が違うことも理解できました。展覧会というメディアはひとりの芸術家にいろいろな角度から光をあてることができます。違う色合いの光の重なるなか、観る者の記憶のなかで芸術家の像が結ばれ、彼・彼女が生きた時代や社会の像が結ばれるのでしょう。そしてその像も時代とともに変化するのだと思います。

    Museum of Fine Arts, Boston  “Degas and the Nude”

    記事:2011.12.14