投稿者: Opekepen

  • チョコレートと大英博物館

    さっぶい日には、ミルクチョコレートが恋しくなりますよね。

    そのミルクチョコレート、イギリスには日本ではみかけない形状のがあるんです。

    ほら、粉状でなくて、こんなでかい粒の。

    大匙一杯ぐらいを火にかけながら、ぐるぐるミルクで溶かす

    ―それだけで、とても滑らかなミルクチョコレートのできあがり!

    DSCN0140

    このパッケージもなかなかすてきでしょ?

    そこに描かれたモデル、バッハみたいな人は、

    サー・ハンス・スローンといって、

    実は、あの大英博物館の設立に大きく貢献した有名なコレクターなんです。

    hans slone

    なぜにして、そんな人がミルクチョコレートのパッケージになっているのであるか?

    スローンは王室に仕える有名な医者だったのですが、 ある時、貴族の船団に乗って、ジャマイカに行く機会を得ました。

    ジャマイカにはヨーロッパではみかけない植物がわんさかあったので、収集家スローンは嬉々として集めまくったに違いありません。

    彼は、現地の人が体によいと不思議なものを好んで飲んでいるのをみて自分でも飲んでみました。

    それが、とてつもなく苦い! 妙薬は口に苦いにきまっておるではないか。

    そう、それがカカオだったのです。

    スローンは、それにミルクや甘みを加えて、飲みやすい飲み物にしました。

    それをイギリスにもちかえって広めたところ、貴族たちの間でとても人気のある飲み物になったんだそうです。

    でも、はじめのころは、薬屋さんで売ってたんだって。 そもそも効用のある健康飲料だもんね。

    スローンは亡くなる時に、自分の膨大なコレクションを二束三文で国に譲りました。

    それがすぐ後に、大英博物館が誕生する核になったのです。

    本草学の医者と、豊かな植物が育つ中南米と、「もの」を収集する博物館が、

    不思議に結びついたとても興味深いストーリーですね。

    ちなみに、チェルシー地区には、「スローン・スクエアー」駅という地下鉄の駅がありますが、スローンの大邸宅があったことに因んだ命名です。

    でもって、その地区にある素敵な庭園、「チェルシー薬草ガーデン」も、もともとこのスローンの庭だったところ。

    居心地よいお庭で、おすすめです。(冬は閉じてるけど)

    スローンのブランドは、今でもイギリスのスーパー、Waitorose で売っています。

    とても柔らかな舌触りで美味しい!

    でも美味しいからといって、飲みすぎはよろしくないですよん。

    イギリス土産なら紅茶が定番だけど、

    こんなのも、大英博物館のお土産話にもなって、なかなか機転がきいているんではないでっしょか~。

  • Who are you? グレイソン・ペリー展@肖像画美術館

    「また、やられた!」 最初の作品を見てそう思った。

    ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで開催中の「Who are you? グレイソン=ペリー」という展覧会だ。

    展覧会のタイトルからして、直球。

    イギリスの王侯貴族から現代のセレブリティーまで、肖像画を歴史順に展示する美術館を舞台にして、

    「あんただれよ?」である。

    最初はだれに問いかけているのか戸惑うかもしれない。でも、すぐにわかる。

    たとえば、壁面いっぱいの大きくて、色鮮やかなタペストリー、でかでかとエリザベス女王の顔がある。

    でも、作品全体が女王のただの肖像画とはいえない。

    なぜなら、それを囲むようにイギリスを表す言葉がぎっしり敷き詰められているからだ。

    フィッシュ&チップス、雨、NHS(国民皆保険制度)、カッパ、ティー?(紅茶いっぱいどう?)、ヴィヴィアン・ウエストウッド、マグナカルタ・・・・

    つまり、これは「イギリス自体の肖像画」ってこと。

    女王の存在もその一部ってこと。

    DSCN9456
    Grayson Perry National Portrait Gallery

    ペリーの他の作品は、肖像画美術館の常設ギャラリーのさまざまなところに散在している。

    中世から現在にいたる歴史上の人物の肖像画と隣り合わせに、ペリーの作品がならべられているのだ。

    モダンライフの部屋にいけば、ペリーの陶磁器作品があった。

    そこに絵がかれているのは、「現代の」家族の肖像だ。

    白人男性同士のカップルに養子となったアフリカ系の男の子という家族である。

    別のコーナーにはシルクのタペストリー。 白人の女の子がイスラム教徒になり、ショッピング街からメッカにいくところを描いている。

    アルツファイマーの夫と暮らす女性の肖像画 (陶磁器作品)

    あるいは、キリスト教の慈善団体に助けられてホームレスの人たちが家族として暮らす家(陶磁器作品) ・・・

    作品の隣には、ペリー自身が書いた解説ラベルがついている。

    たぶん、モデルに出会っていろいろ話をきき、それをヒントに、作品をつくったに違いない。

    王侯貴族でもセレブでもないけれど、それぞれが、現在に生きるパーソナルな物語である。

    それらが美術館の常設展示のなかに、散在していることで、結局のところ肖像画とは何かとといかけてくる。

    そして、もっといえば、

    「WHO ARE  YOU?」だ。

    このブログを書きはじめた頃、グレイソン=ペリーの大英博物館での特別展のことをとりあげたことがある。

    ペリーは、子供の頃からクロス・ドレッサー (異性装)だった。

    今でこそ、晴れの舞台では、女性の格好をして人前に立つけれど、子供のころから自分のジェンダーやアイデンティティーに悩まされた。

    そのことを重ねるならば、

    「WHO ARE YOU?」の意味はもっと深くなるに違いない。

    もうひとつ、「してやられた!」と思った理由は、

    大英博物館での展示の時と同じように、展示という空間、しかも常設の展示と遊んでいることだ。

    ペリーの作品が散在することで、従来の展示がまた違うように語りかけてくる。

    ペリーは、英国人のアイデンティティーという枠組みだけではなく、アートという枠組み、展示という枠組みにも違う見方を誘うのである。

    2014/11/2

  • ターナー、あの抽象性はどこからくるのか?:テートブリテン

    イギリス風景画を代表するターナー。晩年の作品が抽象的な作風になったことは、みなさんもご存知だろう。

    60をすぎてからのターナー作品の多くは、船や建物など人造物の占める割合が減って、
    描く対象を自然そのものに向けてきた。
    海のうねりや風の動きを、荒い筆致でエネルギッシュに表現したり、
    霧がかかった湖の繊細な色の移ろいを、薄塗りを重ねて静寂を伝えたりと、
    フォルムをしっかり描く伝統的な方法からは、もっともっと開放された自由なものになる。

    しかし、その解釈に重きをおくあまり、ターナー作品への理解を歪めてしまうことすらあるのかもしれない。

    ターナーはモネやルノワールたちフランス印象派とつなげられ、彼らの一世代も前に新しい表現を生み出したといわれることもある。

    彼の作風の変遷をめぐっての一般的な理解は、抽象性への傾向がしだいに強くなり、具体的・物語的な表現が薄れていくというものだ。

    ほんとうのところ、どうなのだろう。

    turner 2014 1
    「英国会議事堂の火事」

    ロンドンのテートブリテンで開催中の展覧会は、その認識がいささか型にはまった見方ではないかと、問いかけてくる。

    ターナーという芸術家は、晩年に至るまで、実に多様な表現を試みているのだ。

    例えば、60代になっても、精力的に旅に出て、様々な風景を描いている。

    ベニスやスイスなどの海外も頻繁に出て、
    風景だけではなく、その土地に特有の建物や人々の様子をよく観察している。
    現在のように海外旅行が容易でないことを考え合わせれば、どんなにエネルギーを要したことだろう。

    国内旅行も繰り返しているし、テムズ川のそばに居を構え、そこからみえる日没や日の出の風景を執拗に描いてもいる。
    慣れ親しんだ土地も、時間や季節が変われば全く違う世界が現れよう。

    土地だけではない。
    物語についても、常に精力的で挑戦的であった。

    18~19世紀のヨーロッパでは、ギリシア神話など古代世界をテーマとすることが、
    しいては作品をより普遍的なものにするという伝統的思考があったが、
    ターナーは、そのような古典的題材だけではなく、
    彼が生きている「いま」の出来事を積極的にテーマとしている。

    たとえば、ナポレオン戦争のこと(ターナーの時代は記憶に新しい重大事だ)、
    19世紀初めの蒸気機関という新しいテクノロジーの開発・・・
    1834年に英国国会議事堂が火事で大半が焼けてしてしまった時も、
    わざわざボートをチャーターして、そのスペクタクルを見学にいっている。
    その時、懐にはスケッチブックがあったに違いない。

    昨日おこった出来事が、ターナーの表現にかかれば、
    まるで神話世界の出来事のように、崇高で無時間な世界として生まれる変わるのだ。

    このように晩年の作品を一堂に集めた展示を見学したおかげで、

    ターナー晩年の特徴である抽象性というのは、

    年老いてからも、世界のさまざまな場所を自分の足で訪ね、実際にスケッチを描き重ねたり、

    現在起こっている出来事に、古典的な崇高さを重ねようとする、

    そのような幅広い世界観、歴史観をもつことによって、

    同時に、その観察力、熟達した目と手を通して、時間を経て紡ぎだされてきたということが、

    改めて理解できたように思う。

    ターナー後期の作品の理解に新たな光を当てる展覧会だった。

    tuener shato

    (基本情報)

    ターナー晩年の作品展

    Tate Britain

    2015年1月25日まで

    (19/10/2014)

  • 焼け焦げたひまわり:アンゼルム=キーファー展@Royal Academy of Art

    地面に横たわって、男は何を見ているのだろう?夢? いや ひょっとしたら死んでいるのか?

    男の上には、彼の3回りも大きいひまわりが何本もつったていて、男を観察するように大きな頭をもたげている。
    すっかり灰と化した花は黒い太陽のようでもあるし、腕をたらした巨人の亡霊のようにもみえる。
    3x4m四方のキャンパスは、絵の具や樹脂で厚く塗られ、まるで地層のように亀裂が入っている。

    色彩も無く、画面全体が荒れ果てた荒野のようだ。

    ドイツのアーティスト、アンゼルム=キーファー (Anselm Kiefer) の、『夜の秩序』という作品である。
    キーファーは、ナチスが崩壊した年に生まれた。

    周囲の大人たちも社会も近史のことを頑なに語ろうとしない、そんな環境の中で育った。
    子供ながら、大人たちが隠していることを調べてきた。
    そのことが、この芸術家を重い歴史と向き合わしめてたのである。

    sunflower kiefer

    2014年ロンドンでの展覧会は、
    1960年代の本を思わせるような作品から、大きなキャンバスの作品、部屋一杯をつかった近年のインスタレーションまで、彼の全仕事を大きなスケールで紹介する。

    雪原の空に女の顔が浮かぶ不思議な水彩画が展示されている。
    ナチスのモニュメンタルな建物を思わせる、廃墟のような巨大な作品-その中央に、枯れたひまわりが逆さにぶらさがっている。
    見渡す限りの荒涼とした雪原に、焼け焦げた本がいくつもうまった作品もある。
    美術館のパティオには、巨大なガラス容器のなかに、何体もの鉛の戦艦が宙ずりになっている。

    キーファーがしようとしているのは、ナチス時代に対する直接的な糾弾とか内省ではないことが、ギャラリーを歩きながら少しずつわかってきた。
    彼の表現対象はある特定の時代だけではなく、人類の歴史全体に向けられていることもみえてきた。
    キリスト教やドイツ神話、歴史上でおこった海戦、アフリカや南アメリカの文明の数々・・・。

    それらひとつひとつの出来事も、彼の目からみたら、繰り返された人間の歴史のひとつの断面であり、
    彼の作品が織り成す断層は、そうした歴史の厚みなのだ。

    あの『夜の秩序』をもう一度みてみよう。

    ひまわりは太陽であり生命の象徴だが、時がたてば、重い頭をもたげ、黒い種を落とす。

    やがて本体が枯れ果てても、その種は夜の星のように、横たわる男に降り注ぐ。

    そして新しい日が生まれるだろう。

    男はキ-ファーその人であり、かつ人類全体を意味するのかもしれない。

    人間は、朝と夜を行き来しつつ、地獄や天国を生み出しながら、死にまた生きる。

    文明や神話を作り上げ、破壊し、また新しい地平をつくる・・・。

    そしてふと思うのだ。

    今、わたしたちはどこに向かっているのかと。

    そのことを、まるで錬金術師のような緻密さと洞察で、

    預言者のような大きなヴィジョンで、

    キーファーは、わたしたちに問いかけている。

    Kiefer boats

    (情報)

    Anselm Kiefer

    Royal Academy of Art

    – 14th December まで


     

    (09/10/2014)

  • ミイラに心を通わせる:大英博物館

    「ミイラと友達になれるような解説をして下さい」。大英博物館でのギャラリーツアーの前、お客様からこういわれた。

    一瞬戸惑ったが、すぐ合点がいった。ミイラに出会えるのは博物館だが、そこでの展示は親しみがわくようなものではない。

    歴史的にも地理的にもあまりに遠い世界ということが理由のひとつでもあるのだろう。

    「ミイラ」といえば、暗い博物館のガラス越しにみる黄金のマスクとか、ホラー映画で登場するイメージが定着している。

    しかし、そのステレオタイプのイメージのために、ほんとはこの地球上に生き、わたしたちと同じように家族もユニークな人生ももった一人の人であったことを容易に忘れてしまう。

    現在開催中の、大英博物館での「太古の人生」展はまさにその視点から古代エジプトに生きた人々に迫る展示であった。

    来館者が出会うのは古代エジプトに生きた8人の人である。血を通わせたのは、現在の最先端の医療テクノロジーだ。

    たとえば当時人々が何を食べていたかとか、どんなに歯痛に悩んでいたかとか、どんな髪型をしていたかなどが明らかにされる。

    しかしもっと驚かされたのは、亡くなった人への気配りがいかに細やかで誠意のこもったものであったかという点だった。

    ミイラから内蔵が抜き取られるのは周知の事で、そう聞けば、惨たらしいと顔をしかめてしまうのが現代人の率直な反応だろう。

    しかし、この展示はCTスキャンによって次のような事実を教えてくれる。

    内蔵を抜き取るために体にあけた穴には、きちんと詰め物をして、傷口は蜜蝋などで塞がれる。

    しかも、その上には、その傷口をいやすために、精巧なつくりの護符が置かれているのである。

    胸にも、喉元にも、腰にも、足の甲にも、ひとつひとつの指の爪にさえ、そうした護符がみつかる。そして、それらひとつひとつが実に繊細な工芸品だ。

    内臓を抜き取るという行為そのものも、亡くなった人が腐らないようにという願いあればこそなのだ。

    mummy-1

    上のCTスキャン写真をみれば、Tamatという名の神官の娘であった故人に対して、どんなに手厚いケアがなされているか、その人への思いが伝わってくるだろう。

    8人の中で、私が最も心動かされたのは、ある少女のミイラだった。

    彼女が包まれたパートネージュ(リネンを重ねて石膏で固めたもの)は成人の女性を思わせる大きさで、そこに描かれた似姿も若々しい女性のそれである。

    しかし、CTによって、実際の彼女の身体は目にみえるパートネージュの3分の2の大きさで、詰め物によって大きくなっているだけなのが明らかになった。

    その骨や歯の状態から、7歳ぐらいの少女であることもわかった。

    刻まれたヒエログラフは、その少女がTjayasetimnという名の神殿に仕える歌い手であったことを伝えてくれる。

    まだ若いからミイラの状態もすこぶるよい。

    いっしょに展示されたCTスキャンの3D映像からは、まだ幼い顔の独特な表情やカールした髪がよく読み取れる。

    その映像を、身体が包まれたパートネージュが成人の女性の顔つきをして、その胸もすこし膨らんでいる事と重ねるならば、この少女が、ほんの少しだけ長生きしていたら、こんな感じだったのだろうかと想像してしまう。

    その思いはさらに連想をかきたてる。つまり、この娘を葬った親や周囲の大人たちも、「この子がもし、もう少し長く生きていたら、美しい娘になったろうに・・」と思いやりながら、ミイラをつくったのではないかと、葬る側のひとびとにも思いを寄せてしまうのだ。

    ミイラづくりの根本に「亡くなった人を丁寧に保存すれば甦る」という考えがあったのならば、後世でふたたびこの娘に出会えると信じたに違いない。

    冷たいガラスの向こうの、最新の科学の目を通した展示に違いないが、ミイラが人として来館者の心の中で甦ってくる暖かい展示であった。

    この展覧会で得た事を自分なりに吸収しながら、ご案内する方々に、できるだけミイラと友達になってもらえるようストーリーを語りたいとも思った。


    (基本情報)

    大英博物館

    Eight mummies, Eight lives, Eight stories

    2014/11/30 まで


     

    (01/10/2014)

  • 神の家からミュージアムへ:イスタンブール、アヤ・ソフィア

    この空気の厚みはいったいどこからくるのだろう。巨大ドームの下に立った時、今まで経験したことのないような重厚な印象をうけて唖然とした。様々な時代の様々な祈りの言葉が、千年の時を超えてこだまする。ここは、トルコの古都イスタンブールにある「アヤ・ソフィア」だ。

    turkey_0008

    ドーム頂上からは、アラブ文字の美しいカリグラフィーが、その下にいるすべてのものの上に降り注いでいる。ドームを支える四隅では大きな翼の天使たちが舞っている。建物の中空には、黒地に金色の優雅なアラブ文字が描かれた巨大な円がいくつも下がっている。

    turkey_0010

    その向こうには、金色の像が浮かんでいる。幼児キリストと彼を膝に抱えたマリアの聖母子像だ。

    そのマリアの足元に目を落とすと、アラベスクで飾られた祈りの場 -メッカの方角を示すミフラーブが、そして、その右横には、イスラムの説教師が座る高座、ミンバーがある。

    ここは、ある時はキリスト教の教会、ある時はイスラム教のモスクだった聖地。さまざまな時代のさまざまな祈りの声は、この建物がもつ実にユニークな歴史の渦巻きから響いてくるに違いない。

    そのはじまりは、この地がローマ帝国の新しい都になった時、禁じられていたキリスト教がはじめて公認されたコンスタンティヌス帝(紀元後4世紀)の時代まで遡る。つまり、サン・ピエトロ大聖堂と並ぶ、キリスト教ごく初期の最も重要な聖地なのだ。かつて、ここにはキリストが架けられたホンモノの十字架が収められていたという。

    やがてローマ帝国が滅び、15世紀になるとオスマントルコの土地となり、この荘厳な建物はモスクに換えられた。ある意味それはイスラムのキリスト教に対する勝利のしるしだった。

    ドームの頂上にあった十字架は三日月に、ビザンチン美術で飾られた聖壇は、ミフラーブに換えられた。床には絨毯が敷き詰められ、ドームの周りにはミナレットが建てられた。そして、みごとなイスラムの礼拝堂として生まれ変わったのである。かつての由緒あるキリスト教会は、モスクとしても、非常に重要な位置を占めることになった。

    turkey_0027

    再び、数百年の時が過ぎ、現在はどうかというと、非常に興味深いことに、もはやどちらの神の家でもない。オスマン帝国が滅亡し、1934年に、この国はトルコ共和国になった。初代大統領ムスタファ・ケマルの主導の下、近代化が進み、この神の家アヤ・ソフィアも世俗化し、「ミュージアム」になったのである。

    近代的技術で修復がすすみ、漆喰の中に隠れていたビザンチン美術が再び息を吹き返した。聖職者に換わって学芸員が配属されるようになった。ここを訪れる人々は、敬虔な信者ではなく、素晴らしい建築物や美術作品を愛で、過去の文化を学ぼうとする人々である。

    職業柄、これまでたくさんのミュージアムを見てきたけれど、こんなミュージアムははじめてだった。 ミュージアムといえば(宗教関係の資料を所蔵するミュージアムであれば)、かつて教会やモスクに飾られたり使われていたいたものが、オリジナルの文脈から切り離されて、その文化・教育施設の中にはいってくるのが、お定まりのケースである。しかし、ここは、宗教の場、それも世界二大宗教の場がそのままそっくりミュージアムになったのである。収蔵庫であり、展示室であり、修復現場であり、研究と教育の場であり、そしてなによりも人類が残した偉大な文化遺産だ。

    神に対する冒涜だとか、作られた時の目的のままに使われるべきだとか、あるいは人間はかつてのような宗教心をなくしてしまったなどと嘆いているのでは、毛頭ない。

    モザイクのキリストの顔も、数学的リズムが調和する文様やカリグラフィーも、それぞれに美しい。そうして、最初のポジションに立ち戻って、再び高いドームを仰ぎ見ながら、この建物が、1700年近い歴史のなかで、人々になんとさまざまな経験を与えてきたことだろうと、思いやってみるのである。

    (07/06/2014)

    P.S. 2020年8月から、トルコ政府の政策によって、またモスクに戻った。

  • カラヴァッジオと十字軍

    ロンドンのシティーに、オーダー・オブ・セントジョンという博物館がある。
    11世紀から病院があった所で、ミュージアムはその歴史を物語っている。

    現在、ここに一枚だけカラヴァジオの絵が架けられている。
    もちろんホンモノだが、この博物館の所蔵品ではない。
    アメリカの個人コレクターからの長期貸し出しだという。

    DSCN5722

    カラヴァッジオのフォロワーのわたしとしては、普段はみることができない彼の絵に出会えるなんて願ってもないチャンスだった。

    その作品「いかさま師」は、
    注意しないとわからないようなところに、さりげなく架けられてあった。

    隠れた博物館でこっそり巨匠の作品を独り占めできるこの贅沢!

    ああ、カラヴァッジオ、カラヴァッジオである。

    作品自体の鑑賞もさることながら、
    「美術」作品がなぜこの「歴史」博物館にかけられているかということにも、とても興味を覚えた。

    今回のエントリーでは、あえてそのことを話したい。

    謎を解く鍵は、「マルタ島」である。

    博物館がテーマとして扱う「セントジョン病院」は、エルサレムへの聖地巡礼や十字軍と深いつながりがある。

    病院は旅の途中で傷ついたり病気になった巡礼者たちを癒すために作られたものだったが、その本拠地はエルサレムにあった。
    ロンドンのこの病院はいわば分館だ。

    「病院」と便宜上書いてしまったが、近代的な病院という施設がまだ確立されていない、うんと昔の「騎士の時代」の話である。

    11世紀、エルサレムはオスマン帝国の土地になった。
    キリスト教の聖地をイスラムの手から取り戻そうとして起こったのが、ご存知「十字軍」だ。
    イギリスの王族や貴族たちも率先して従軍したり、深く加担している。

    2-3世紀にもおよぶ聖地を巡る長い戦いも、十字軍の撤退という形で幕を閉じるのだが、
    エルサレムにあったセント・ジョン病院本部も、最終的によりヨーロッパに近いマルタ島に拠点を移すことになった。

    かたや、カラヴァッジオの方にもマルタ島と深いつながりがある。

    時はおくれて、16世紀のローマ。
    美術界の寵児になっていた売れっ子カラヴァッジオは、ガラッパっちな性向の持ち主でもあった。
    あっという間に大作を描きあげたら、2-3ヶ月ローマの下町をほっつき歩いて、飲みほうけたり、喧嘩をしかけたり・・・
    乱闘のあげく、ついに人を殺めてしまう。
    セレブリティーが突然お尋ね者になったのだ。

    そうして、逃げてきた先がマルタ島であった。
    その逗留中に絵の注文をうけて描きあげたのが、この「いかさま師」だ。
    ある意味、自虐的な自画像なのかもしれない。

    博物館のストーリーとカラヴァッジオの一生が、マルタ島でぴたっと重なる。
    そのことがわかってから、再び鑑賞したら、より興味が広がったのはいうまでもない。

    もうひとつ、この博物館でおっと思ったことがある。

    それは、館の入り口に、アラブ語のパンフレットがおいてあったことだ。
    現在のロンドンには、たくさんのイスラム教徒たちが住んでいる。
    イスラムと戦ったキリスト教十字軍と深く関わる病院を、どう中立的に描いているのか、
    どのように現在のイスラム教徒たちに語ろうとしているのか、
    この博物館には改めて来なければと思った。

    (24/04/2014)

  • 空間を遊ぶ:ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ

    ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで、建築の展覧会をやっている。様々な国の建築家たちの作品が集められた展覧会だ。こういう展示のつくりだと、ついつい作品を比較してしまう。そこに作家の文化背景をみようとし、違う文化に属する建築家たちの空間に対する捉えかたの違いを考える。でも、見学しながら、そういう鑑賞の仕方も実はステレオタイプなのではないかと思えてきた。

    それでも、自文化に対するアイデンティティーをとりたて意識していたのは、中国と日本の作家だった。Li Xiaodongの、竹という素材やその組み方には伝統を感じさせるものがあったし、隈研吾の作品も、畳の匂いや檜の匂いを使って、「間」という日本独特の空間の捉えかたをみせていた。

    でも、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツという建物と遊んでいたのはDiebedo Francis Kere (バキナ・ファソ&ドイツ)、Eduardo Souto de Moura(ポルトガル)そして  Pezo von Ellrichshausen(チリ)だと思う。

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    例えば、Kereは、二つの展示室をまたがる部分に、色鮮やかなドームをつくった。

    近くには、蛍光色の自在に曲げられる細長い棒がたくさん置いてあり、来館者がそれを曲げたり、形作ったり、ほかとつなげたりして、そのドームをどんどんつくりあげていく-という、参加型の作品だ。

    Pezo von Ellrichshausenの建築は、展示室いっぱいの巨大なスツールだ。だが、そのスツールの脚の内部は螺旋階段になっていて、上がると美術館の天井近くにたどり着く。

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    普段はマジかでみることのない、この18世紀の建物の細部に出会う。小さな窓を通して、隣あわせの展示室への入り口を見下ろす。

    Mouraは、この美術館の各展示室の出入り口に施された美しい建築的装飾をコピーして、違う素材で再現し、その出入り口付近にずらすように設置して、不思議な空間を創った。

    Mouraはこういう、

    「建築家のための空間なんかありはしない。その空間にある種の印象を与えるような制限をデザインするだけだ。」

    難しいことをおっしゃる。

    だが、ふと気がついた。 彼らは、特にチリだの、バキナ・ファソだの自らの文化背景を表そうとしているのではない。ただ、一人の建築家として与えられた空間の中で、彼ら自身の表現、Mouraの言葉を借りれば「制限」を追求しようとしているだけである。彼らにとって、そこにラテンアメリカ的なものとかアフリカ的なものなど不要なのだろう。

    グローバルな21世紀、グローバルに活躍するアーティストたちは、いつも彼ら自身のアイデンティティーを表現しようとしたり、それを求められたりすることが多かったし、今まだそれが通常ではないだろうか。村上隆などその代表かもしれない。

    でも、空間と遊んでいる建築家たちの作品をみていたら、そんな事、本当はどうでもよい事ではないか。むしろ、それを越えなければいけないのではないか、と思えてきた。

    まずは、鑑賞者であるわたし自身がもっと自由に感じようじゃないか。もちろん、創り手の文化背景を知ることもとても大事だけれど、それをむやみに検索したり、作品とこじつけたりせずに。
    ひとりひとりの建築家の与えられた空間とのコラボレーションを体感するのが面白かったし、その空間の中で、ほかの人々が動いたり、立ち止まったり、寝転がったりしている動きを見るのも楽しかった。 彼らもそこに設えられた新しい空間に身体を預けながら、あるいは頭の中で遊んでいたのである。

    (28/03/2014)

  • 「最後の日本オオカミ」に会いにロンドンへ

    桜の名所、奈良は吉野の知らない方から、一通のメールをいただいた。

    そこには「ロンドンの自然史博物館に日本オオカミを見に行きたい」とあった。

    ロンドンで日本オオカミ? 日本オオカミって、あの絶滅した・・・???
    日英ミュージアムのコーディネートを仕事にしている私は、メールを受け取るなり、これはちゃんと電話でお話を伺わなければと思った。

    依頼主は奈良県東吉野村の議員さんたちだった。

    明治も末のこと、なんでも村の猟師がオオカミを捕獲し、「山犬」はいらんかと売り歩いていたのだが (その時はそれが最後とは思いもしなかった)、折りしもアメリカの若い研究者がイギリス人貴族の援助を受けて調査旅行に来ていて、その山犬=オオカミを買ったのだそうな。

    そのイギリス人が買い取ったオオカミ(毛皮と頭蓋骨)を大英博物館に寄贈し、

    やがてその分館、現在の国立自然史博物館に移され、今もそこに保管されているという。

    だが展示公開されてはおらず、収蔵庫に眠っているらしい。

    実は、村会議員さんたちのロンドン訪問の真の目的はオオカミの返還である。

    人口が減った村をなんとか元気にしたい、そのためにはシンボルがいる。そう考えた議員さんたちは、ロンドンにいる故郷のオオカミに目をつけた。返還は難しそうだが、まずはそのオオカミに会いにいこうではないか。そこで交渉の糸口を探ろう。 奇特なことに旅行資金は、村のお金を使わないで、ご自分たちのお小遣いをためたのだそうだ。 もしうまくいって、オオカミが故郷に戻れば、村はさぞかし活気づくに違いない。確かに希望の持てる話である。

    わたしに頼まれた仕事はいわば仲介役である。はじめは不可能に近いのではと懸念した。だが、博物館学を専門とする私にとっても個人的に非常に興味深い話だし、なにより、それだけの熱意をもって村のことを考えておられる議員さんたちの想いに動かされ、お仕事をお受けすることにした。

    ヨーロッパは初めてという7人の議員さんたちにロンドンのホテルでお会いした時、はるばる海を越えてやってこられた彼らの熱意の大きさに改めて圧倒された。ところが、その時わたしは、すでに自然史博物館の担当学芸員から直に、「返還は不可能」という念押しを受けていた。意気揚々としておられるみなさんに、その返答をいつ切り出したらよいかわからなかった。しかし、ようやく、自然史博物館訪問当日の朝、博物館側からのNOをお伝えした。さあこれからという時に、みなさんの落胆される顔をみるのは、たいそう辛いことだった。

    だが、その返答はみなさんも想定内だったので、気を取り直し、まずは会いに来たという姿勢をみせたいと、自然史博物館訪問に臨んだ。

    博物館の玄関で担当学芸員がわたしたちを出迎え、オオカミの待つ特別室に招いてくれた。 

    すると、先に部屋に入った議員さんたちから「オオっ」という感嘆の声が聞こえてきた。このオオカミに会うために長い年月準備をし、はるばるいらしたのだからなあ・・・・。 しかし、わたしも部屋に入ってみれば、その感嘆の意味がさらに理解できたのである。

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    立派なガラスケースのなかに、そのオオカミは、ほんとうに美しい毛皮を羽織って横たわっていた。
    触ればその柔らかな毛の感触や匂いが今でも感じられるようだった。

    学芸員は捕獲当時に描かれたという美しいイラストを見せてくれた。また、そのオオカミ標本に関する豊富な情報のファイルを準備し、村にプレゼントしてくれた。ロンドン博物館側のオオカミの故郷に対する歓迎ぶりにも、敬意と誠意が感じられた。

    写真撮影がすむと、オオカミの前で学芸員氏の説明が始まった。

    彼の話は、日本オオカミの特徴から始まり、標本の保管方法、さらには、この日本オオカミが、生物学的な側面だけではなく、自然環境の理解にいかに重要なのかを説明してくれた。

    通訳をしながら、私自身がたいへん興味を覚えたのは、

    このオオカミが、人間社会と動物社会の関係性の歴史的推移を理解するのに、世界的にみても貴重な資料だということだ。

    人間がまだ採猟生活をしていた頃、オオカミたちは人間社会にとても近く親しい存在だったという。危険な動物が村付近にやってきた時、村人たちに警告してくれたのがオオカミたちだった。ところが、人間が農耕生活を営むようになってから、オオカミたちが食料を摂る場所が減っていき、やがて田畑や家畜を荒らすようになった。そうしてオオカミは人間にとって悪者になってしまったのである。

    その物語の最後を語ってくれるのが、この日本オオカミなのだ。

    自然史レベルで世界的にもトップのこの博物館には、何百万点というコレクションがあるのだが、ここでさえ、そのように人間との関係を物語る資料は稀だという。だからこそ、この日本オオカミを大切に保管して、研究し、後世の世界の人々に伝えることが大事なのだと。

    通訳しながらあまりに壮大なお話に忘れかけていたのだが、ふと我に返って、議員の方々の日本オオカミ返還に対する強い想いを思い出した。視察団はまだ本音に触れていない、そのまま知らないふりをしてよいのだろうか。差し出がましくも仲介役のわたしが水を向けるべきだろうか。いや待て、議員さんたちの顔をごらん。おひとりおひとりとても満足している様子が伝わってくる。答えはそこにあった。

    そして、まさに、議員さんたち自身が声にだされたのである。
    「こんなに大切に保管してくれて、ほんとうに嬉しい」
    「そんなに貴重な資料であるこのオオカミが生息していた村の者であることを大変誇りに思う」と
    暗黙のうちに、このオオカミはロンドンの自然史博物館にあるほうが、より大きな意味でよいのだと納得されたようだった。

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    このオオカミの美しさは、博物館が守り続けている一定の温湿度・光の制限、虫の駆除など、注意深い保管の賜物だ(だからこそ、展示されていない)。 議員さんたちは、ロンドン訪問前に、他の日本オオカミ標本を見に、東京や和歌山の大学・博物館を訪問されたという、ところが、そこにあるのは、色が失せてしまって、毛も短くなっており、まるで「犬」のようだったと。 ある議員さんは、ロンドン自然史博で保管されているオオカミに会った瞬間、「これこそが思い描いていたオオカミだ」と思われたらしい。

    さらに喜ばしいのは、自然史博物館の学芸員が今回の村の訪問も「オオカミと人間との物語」の重要な一部になるといってくれたことだ。将来的にこのオオカミを展示することは大変難しいが、これは人類にとっても大変貴重な宝であり、そのストーリーを語っていくことは非常に重要だ。だから、これからもっと積極的に自然史博物館のウェブサイトなどで表にだしていきたいといわれた。それに対して、村のみなさんは、オオカミが捕獲された場所の写真を自然史博物館に送りましょうと応えた。その写真はきっとロンドン自然史博物館のウェブサイトの中で、オオカミのストーリーを飾ってくれるに違いない。

    奈良の東吉野村とロンドンの自然史博物館が絆を深めていく事、そして、その絆こそが村の発展につながるのではないか。 念願のオオカミ返還は果たせなかったけれど、その絆こそが東吉野村を元気にしてくれるのではないだろうか。 仮にオオカミが村に帰ってしまったら、この関係性はそこで終わってしまったことだろう。だが、最後の日本オオカミがロンドンにあるからこそ、その絆は将来にわたって続けることができる。そこには、村にグローバルなパワーを与えてくれる可能性が秘められている。

    桜の雲を眺めながら、その空が続く先にある東吉野の山々を想ってみる。そうして、その山々に住むオオカミが人間社会を守ってくれる動物だったことを思い出しながら、この最後のオオカミも遠くロンドンから日本の故郷の村を見守ってくれているような気がする。

    ロンドン自然史博物館のホームページ 日本オオカミ資料


    (19/03/2014)

  • 素晴らしく裏切ってくれた「ターナーと海」展:ロンドン海事博物館

    グリニッジにある国立海事博物館で開かれている「ターナーと海」展がかなり盛況らしい。この展覧会のポスターをみた時、なるほど、海の博物館でやるターナー展だから、きっと美術館とは違って、ターナー作品と海にまつわる道具や船などの海事資料がいっしょに展示されるのだろうと思い込んでいた。それはそれで面白い企画に違いない。 欧米はもちろん、昨今では日本でも動物園と美術館のコラボレーションなど様々な企画が活発になっている。

    先日、やっとグリニッジにまで行くことができた。ところが、先の期待をもちつつ、展示室に足を踏み入れるとどうやら様子がおかしい。すぐにわたしはとんでもない思い込みをしていたことに気がついた。海にまつわる道具と絵画の並列など見られず、展示室はすべてターナーの絵画作品(80%)とそれをサポートするような関係のある画家(20%)の作品で埋め尽くされていた。そうして、それも当たり前のことではないかと合点がいったのである。

    turner-hot-ticket

    海事博物館が「海」を物語るのならば、ターナーという巨匠が追求した「海」の作品世界だけで展覧会を構成して、なんの不都合があろうか。仮に、展示が海事関係の「もの」と並列していたら、彼が絵画の中で表現した世界観が薄まってしまったかもしれない。ターナーはその世界を薄めてはならない巨匠だ。そう気がついたら、わたしの先入観が鑑賞を妨げていたような損をした気分になり、はじめからもう一度作品一点一点をみていくようココロを入れ替えたのである。

    全体的によく創られた展示であった。なにより、「海」をテーマにした作品だけを、イギリス本国だけではなく、アメリカ合州国やオランダ、ポルトガルなどから集めてきて、ひとところで一度にみることのその贅沢。展示構成は、ゆるやかに、彼の画歴を追う流れになっている。 水彩画に秀でた若き天才が、初めて油絵に挑戦したのも、海の作品、「Fishermen at Sea」だ。 月の光に映された海のなんとミステリアスで深遠なことか。畏怖の念を抱かせ、同時に小船を包み込む懐の深さがうまく表現されている。

    作品を見ながら、自ら荒れ狂う海の船に乗り込み、船長に頼んで、自分の体をロープでマストに括りつけ、嵐のなかを長時間もスケッチしたという、逸話を思い出した。目だけではなく、体まるごと海や自然の驚異の中に入り込み、それをキャンパスの中でアートとして再現したのである。そうして、後年は、具体的な細部は削られ、エッセンスだけが凝縮されていく。まるで数十年後にフランスでおこる印象派を先取りするような。

    展示構成に話を戻せば、最後から二番目の小さな展示室が彼の残した海のスケッチや水彩画だけを集めていたのも、とてもよかった。 油絵でみられる抽象的な表現が、スケッチの段階から何度も何度も彼のなかで繰り返されていることがわかる。そうした積み重ねが、より大きなキャンパス、油彩という画材に挑んだとき、結実するのだろう。

    ちなみに、わたしが思い込んでいた海事資料とターナー絵画の並列だが、展覧会のリーフレットでちゃんと試みられていた。 リーフレットを開けば、展示されたターナー作品の写真の隣に、それに関連する資料、たとえば、漁船のための水先案内のランプとか、ネルソン総督が着ていた軍服とかが、並んでおり、常設展示室のどのギャラリーにいけばそれがあるかも書いてある。 さりげない誘いである。

    (15/03/2014)