カテゴリー: 旅

  • 5000年前のリビングルーム:オークニー島

    ご存知「ストーンヘンジ」は、英国の重要な文化遺産。Stone Henge と固有名詞になっているくらいだが、英語表記からわかるように、巨石遺跡の一般総称であって、実は、イングランド、ウェールズ、アイルランド、スコットランド内に、たくさん点在している。

    なかでも、オークニー島はその古代遺跡の宝庫だ。その事をある歴史学者の本で知ってから、いつかいってみたいと思っていた。今日やっと念願が叶う。

    巨石遺跡といえば、エジプトのピラミッドの例のように、パワーをもった人の墳墓とかパレスとか、そうでなければ、「ストーンヘンジ」のような儀式の場と相場がきまっている。

    だが、オークニー島の遺跡の魅力は、新石器時代の普通の人々の生活がわかる事にある。

    Stromnessから車で30分、のどかな緑の放牧地や静かな湖を抜けると、白い砂浜を抱いた青い海岸線にでる。

    そこに、北ヨーロッパでもっとも保存状態がよいといわれる古代遺跡、Skara Braeがある。

    紀元前、3500年の集落だ。

    「ストーンヘンジ」が紀元前2100年。

    ギザのピラミッドだって、紀元前2500年。

    ピラミッドだって恐れ入るけど、それより、なんと1000年も古い!

    そんな太古の昔に、どんなに心地よく工夫して人々が暮らしていたことか!

    きれいに積まれた石壁でかこまれた丸い家々が、10(現在わかるだけで)ほど集まっている。

    それらを結ぶように通路ができている。各家の中央には暖炉がある。暖炉を囲むように、ひとりひとりのベッドがある。

    ベッドには動物の毛皮やわらが敷かれ、マットレスになった。ベッドのそばには、石の飾り棚があり、日用品が並べられていたのだろう。

    その奥まったところからは、貝や石でつくられた装飾品がでてきたという。スタイルつまり文化があったのだ。

    暖炉のそばには、水槽があって釣られた魚やロブスターがはいっていたと推測されている。

    太古の冷蔵庫だ。

    なんと、インドアトイレまである。

    家をでれば、すぐそこに青い海が広がる。

    豊かな食材の宝庫だ。

    繰り返すが、今から5000年以上も前の生活である。

    もちろん、ストーンヘンジやピラミッドは息を飲む壮観さがあるが、

    こちらは、人々の生活の匂いがする。

    よい環境で、少しでも心地よく暮らそういう工夫がみえる。

    Skara Braeは、1850年の嵐によって露出するまで、何千年もそこに眠っていた。

    だから、こんなに保存状態がよいのだ。

    あの飾り棚も、ほぼ当時ののままの状態で発見されたという。

    オークニー近辺の古代史は、今も発見の途上にある。

    Skara Braeから車で20分ぐらいのNess of Brodgarという所には、

    国際考古学グループによって発掘調査がすすめられているエリアがあり、

    次々に新しいことがわかっているそうだ。

    Ness of Brodgarは、二つの湖に挟まれた細長く狭い土地で、自然がつくった魅力的なセッティングだ。

    そこに立っているだけで、不思議なパワーを感じる。

    古代の人々もそのロケーションに魅了されたのだろうか?

    そのミステリアスな自然環境のなかに、崇拝の場所や集う場所、暮らす村を選んだに違いない。

    Ring of Brogdar (推定BC2500)と Standing stones of Stones of Stenness (推定BC3100 BC) というストーンサークル(いわゆるストーンヘンジのような巨石文化)、そしてBarnhouseの新石器時代の村(推定BC3100 BC)だ。

    その家々も、Skara Braeのように、石の家具や炉があり、シンメトリーでシンプルで美しい。

    そこで発見された石には、彫りが施されていたのだが、

    この時代によくあるように、動物や人間を描いたようなものではなくて、

    三角や円や線を組み合わせた幾何学的なもので、鮮やかな色がついていた事が調査から明らかになっている。

    古代人の、まさに「ミニマリストの家」だ。

    オークニー島には、ロマンがある。

  • オークニー島:スカンジナビアの匂いのする港町

    北スコットランド旅8日目。夕方のフェリーで、スコットランドを離れて、さらに北の島、オークニー島に向かった。目指す港町は、島の第二の都市 Stromness。

    1時間半の短い航路だが、ヨーロッパでも最も危険な航路である。アクセスの困難さが、この島へのロマンを呼ぶ。

    Stromnessに着いたのは夜の8時。5月末の北ヨーロッパではまだ明るい。

    3日間滞在の拠点になる宿は港に面した家だ。

    港に着くや、この町がイギリスともスコットランドとも違う事に目をみはった。

    小さいながら風情のある漁港の佇まい。石畳の曲がりくねった細い道。

    建築物には赤い色の石が使われている。その建築様式も独特だ。

    明日は早起きして、この町を歩いてみよう!

    翌朝カメラ片手にぶらついた。

    きのうの印象はより濃くなった。

    イギリスにいるとはとても思えない。

    徐々にわかっていくのだが、

    この島はヴァイキングによって支配された時代が長く、

    スコットランドの地になるのは、なんと15世紀になってからだという。

    私たちが泊ったのは、この港を目の前にした小さなキッチン付き一軒家。

    これまでの宿とはひと味もふた味も違う。

    かつては倉庫か船造りの町工場だったのではないかと思う。

    港に面した大きな窓から、天気や時間、陽の指し方だけではなく、

    港に出入りする船の様子や鳥たちの様子をみていても飽きなかった。

  • ブリテン島の陸の孤島

    スコットランド旅、5日目。朝、ウォーキングに向かったのは、Achiltibuie村のある半島の付け根。地図上の距離では、ハイランドの幹線道路と近くにあるのだが、幹線道路とその付け根部分を結ぶ車道はない。

    その海岸線は、道路が敷けるような環境ではないのだろう。だから、2日前ここに入ったときも大回りしながら、クネクネ道を走ったのである。

    今朝は、車がはいれるぎりぎりのトッツキまで行き、そこに停車して、その先に続く「フット・パス」を歩くことにした。

    ゴースの黄色い花が咲き乱れ、その香しい匂いがあたりに漂う。

    時折、色鮮やかな家や石造りの小屋が点在する。

    羊たちの群れの向こうには海が広がっている。

    なかなか絵になる風景だ。

    red house post man

    その先にも道が続いているのだそうだが、

    昨日の事もあったし、ここもかなり長く厳しい道のようなので、

    今回はそこで断念した。

    ところが、後で、Joさんの本を斜め読みして知ったのだが、

    その道は、ハイランドの中心部と結ばれた唯一の道だった。

    あの2日前わたしたちが通った車道ができる前の話である。

    post man

    かつて、このAchiltibuieにくるために、ポストマンは20キロ以上の険しい道をとおったという。恐れ入ってしまう。

    文字通り、このエリアはブリテン島の陸の孤島だったのだ。

    そんなロケーションに住む人々の生活は厳しかった。

    時には凄まじい貧困とか飢餓とかがあったらしい。

    ところで、わたしたちのホストのJoさんは、母屋の方に一人で住んでいる。

    たぶん、70代半ばぐらいの方だと思う。

    きれいな英語を使われたので、ご出身を聞いてみた。

    「いえ、わたしはもともとロンドンなんですよ」

    「リタイアーしたし、子供たちも大きくなったから、

    27年前、ここに住み着いたんです。」

    「犬もいたし。ここが大好きで」

    「あなたたちが泊っているコッテージは、昔、牛小屋だったんですよ」

    Jo House

    高齢の女性が一人、こんなに田舎の家で暮らしている。

    イギリス人の高齢者はとても自立していて、

    それなりに自分の人生を楽しんでいる人が多く、いつも感心してしまう。

    かつては寂れた部落も、

    Joさんみたいな人がいたり、ウォーキングやシーカヤッキングが好きな都会人がやってきて、今は人口が増えているという。

    最後に、今日のごほうびの写真。肉眼で発見。

    まさか、出くわすとは思わなかった。

    dear horn

  • オットセイの楽園

    イギリス人もスコットランド人も、自然を歩くのがほんとうに好きだと思う。「歩く事」が文化になっている。

    パートナーのJのおかげで、新しい趣味がわたしにもできた。

    歩く事が文化だから、それを支える様々なシステムができている。たとえば、英国では全国津々浦々に「フットパス」というのが巡らされている。

    簡単にいえば、たとえプライベートの土地でも、基本的なルールさえ守れば、誰もが自由に歩けるというしくみだ。

    Jが誇らしげに語るには、フランスでは「フットパス」が政府主導でつくられたのに対し、

    イギリスでは、人々の間でそういう習慣が自然にできあがったらしい。

    若干、長年の宿敵フランスに対する見栄があるように思えなくもないが、

    それはさておき、歩く事が「文化」になっているのだと、やはり思う。

    そのおかげで、全国くまなくカバーされた、とても細かい地図さえある。

    ホストであるJoさんちのコッテージの本棚にも、

    この近辺の歩く用の細かい地図やウォーキングのしおりがあった。

    今回は、それを拝借して、海岸部に沿って小さな半島をぐるっと廻るコースをきめた。

    車を最寄りのパーキングスペースに停め、海に向かった。

    川と小さな沼地と海と、砂場と岩場と、不思議な色のハーモニーを演出している。

    masy land and jamie

    しかし、穏やかなのはそこまでで、そこからは、大変(少なくともわたしにとっては)困難なルートを行く事になった。

    フットパスといっても、これが道なのか?というような感じ。

    いや、かろうじて獣道みたいのが確認できるなら、まだましで、

    まさに言葉どおり「道なき道を行く」。

    時には、深い草むらや灌木の湿地帯だったり、海岸線の崖っぷちだったり、ゴーゴーと流れる激流の川沿いだったり・・・。

    そのような状況で、どのルートをとるか判断するのはとても難しいと思うのだけど、

    先をいくJは心得たもので、時に細かいマップやGPSにたよりながらも、道を探し出した。

    moor field red

    わたしは悲鳴をあげながら、あとについて行った。

    なにを隠そう、実は高所恐怖症なのだ。

    崖っぷちを歩く時には、文字通り膝がガクガク鳴っていた。

    一見歩きやすそうな湿地帯だったって、深い草むらの下に、小さく深い水たまりが隠れている。

    そこにはまったら、ひどい目にある。

    海岸沿いだから、ものすごく風も強い。しかも、時折強い雨が降った。

    鼻水と涙を流しながら(強風に吹かれるとそうなる体質)、

    ウォーキングシューズの中もぐしょぐしょにしながら、

    時に尻餅もつきながら、必死に歩いた。

    なんでこんな人っ子ひとりいないようなところを歩くんだろう。

    誰がこんなとこにくるもんかと、

    なんでこんな品のよい日本人をひっぱってくるのよ!とブツブツいいながら、

    しかし、ここまで来たら、いさぎよくついて行くしかなかった。

    やがて向こうの方から、人影が。

    一組のカップルが、道なき道をさっさと通過して行った。

    「ここは、わたしたち3度目なのよ。今日はなんか歩き足りなくて、予定をのばす事にしたの」

    やっぱり、エゲレス人は自然のなかを「歩く」のが好きだ。

    でも、歩ける道だとわかって、少し安心した。

    こういうハードな道を歩く時は、後でよい事が待っていると想像するのが一番。

    私の場合、それは、美味しい酒と料理とか。

    これがもしも日本だったら、そのリストに絶対に「温泉」をいれるのだが、

    スコットランドでは、温かな湯をはった湯船でがまんするしかない。

    もう3時間も歩いただろうか、ある高台に上りつめたら、

    その向こうに隠れた静かな湾が待っていた。

    波が押し寄せるところには、一軒の石造りの廃屋がある。

    bay with a old house

    こんなところに人が住んでいたなんて!

    どうやって生活を営んでいたんだろう?

    そもそも、どうやって他の地域と行き来したのだろう?

    などと想像していたら、

    Jが叫んだ。

    「オットセイだよ、ほら、あそこ。あんなにたくさん」

    ほんとだ!

    こんどは、肉眼ではっきり見える。20匹はいるだろうか。

    先日スカイ島で遠見したオットセイたちは、

    そろいもそろって岩盤の上で、ひなたぼっこをしていた。

    ずんぐりした図体を横たえて、うだうだとリラックスしていたけれど、

    今回みるコロニーのオットセイたちはとても活発だ。

    日向ぼっこ組もいるが、海で泳いでいるのがたくさんいる。

    子供たちなんだろうか。

    追いかけっこしたり、ジャンプしたりして遊んでいる。

    seals sunbathing
    seals playing

    向こうも、こちらに気がついたようだ。

    海から顔だけだして、こっちをじっと見ている。

    わたしたちがちょっと動くと、

    日向ボッコ組 −きっと親たちなのだろう−が、一斉に海の中にはいってしまった。

    でも、けして遠くにはいかないで、少し離れたところでこちらをみている。

    子供たちはあいかわらず、たまに海から顔をだして私たちの様子をうかがいながら、

    遊びに興じている。

    楽しそうだから、わたしたちもそこでサンドイッチを食べる事にした。

    さっきの風雨はうそのように静まりかえっていた。

    荒い波も、この小さな湾では穏やかになっている。

    ここは、オットセイたちのパラダイスにちがいない。

    わたしも「温泉」の事は忘れてしまった。

    ここまでなんとか歩いてきた事に対する

    かけがえのないご褒美である。

    ランチを終えて、もうぼちぼち出発せねばと、立ち上がった。

    先に進むには、湾に降りて行かなければいけない。

    オットセイたちの平和で楽しい時間を乱してしまうようで、申し訳なかったけれど、

    どうやら、老婆心だったようだ。

    湾を降りて、廃屋の脇をとおり、反対側まで行ったら、

    なんと、子供のオットセイたちがわたしたちの方に近づいてきたのだ。

    彼らは、海から顔だけだして、わたしたちを目で追っている。

    たまに、海のなかに水しぶきをあげてジャンプしながら。

    好奇心たっぷりのオットセイたちだった。

  • スカイ島で出会った野生動物

    雨があがった。午後には日が射すという。サンドイッチをつくってウォーキングにでかけるとしよう。目指すはスカイ島の西の半島、Duirinishというところ。

    そこには、スコットランドにはめずらしく白い砂浜があるという。いや、正確には砂ではない。珊瑚礁の死骸だ。

    冷たい海に珊瑚礁が広がっているという事自体も意外だった。

    雨がやめば、人が外にでてくる。出てくるのは、もちろん人だけではない。

    車を停めて、海岸沿いに歩く事1時間。

    犬を連れた人々に出くわした。

    みんなリードはつけず、自由に歩かせている。

    まだ曇り空の下、それはそれでミステリアスな風景だ。

    man and dog

    ふと、地面にたくさん穴が空いている事に気がついた。そこいら中に豆みたいなのが転がっている。

    どうやら、この砂浜はうさぎの集落があるらしい。

    と、なんと目の前の穴からうさぎがでてきた。

    二匹いる。まだ子供なのか?

    ばらばらと人が歩いているのに。

    いや、犬たちだって勝手気ままに歩いているのに。

    のこのこでてきてしまって・・・

    雨があがったのが、やっぱり嬉しいのかしら。

    わたしのほうは、なんか、急におとぎ話の世界にはいりこんだみたいな気分になった。

    rabbit

    そこでサンドイッチのランチを食べた後、再び、車で次のところに移動した。

    海沿いの道を走らせていると、向こう側に小さな船が浮かんでいる。

    はじめは漁船かと思ったが、小さな島の周りをうろうろしているので、

    おかしいなと思った。

    パートナーの運転手は、どうやらピンときたようで、

    車を脇に停めて、双眼鏡をとりだした。

    「オットセイだよ」

    「え? オットセイ?まじ?」

    双眼鏡をのぞくと、まるまるとしたのが何体も岩盤の上に、体を横たえていた。

    写真からも、わかってもらえるだろうか?

    seals

    野生のオットセイをはじめてみたのは、南アフリカのケープタウン。あの時もコロニーだった。

    でも、まさか、こんな北の海でみるとは思いもよらなかった。

    みんなきっと、雨があがって、日向ボッコしているのだろう。

    確かに、さっきよりは明るくなった。

    スカイ島ではもうひとつの出会いがあった。というか再会だ。

    20代の頃に読んだ本がある。

    あるスコットランド人が、人里離れたところで、カワウソをペットとして飼っていて、

    彼らとの生活を日記に綴ったもの・・?だったように記憶している。

    スコットランドにはエキセントリックな人がいるなあと感心したのを覚えている。

    できないとは知りつつ、こんな生活してみたいと憧れもした。

    話を戻して、スカイ島の旅をおえて、橋でスコットランド本島に戻る前、小さな港町で小休憩をした。

    そこの駐車場でなにげに町についてのインフォメーションを読んでいたら、どこか耳覚えのある話。

    そう、あの本で読んだ、ガビン=マックスウェルとカワウソたちの話だ。

    スカイ島とスコットランド本島のあいだに小さな島がある。

    今は、その島を経由して橋がかけられているのだが、昔は船で行き来するしかなかった。

    そこに、灯台(現在は使われていない)が今でもみえる。

    なんとその灯台がマックスウェルが住み、ブリテン島で数が激減しているカワウソたちのコロニーを作ろうとしたところなのだ。light house otto 1

    まさか、ここで出会うとは思いもよらなかった。

    現在は、橋がかけられ、彼が住んだ灯台はミュージアムになっている。

    カワウソの数はブリテン島全体で、少しずつ増えているという。

  • 雨と土と海が創ったウィスキー:スカイ島/スコットランド旅2日目

    北スコットランドの旅2日目、スカイ島。目覚めたら雨だった。予定を変えてウィスキーの蒸溜所を巡る事にした。それは、それで楽しみである。だって、「スカイ島」の名前は、有名なスコッチウィスキーの銘柄から知っていたのだから。

    話が飛ぶようだけれど、わたしの古い友人が石川県は能登地方で日本酒の杜氏をしている。

    その友人のところにイギリスからの土産で、スカイ島のウィスキー「Talisker」をもっていったことがある。

    ボトルのラベルには青黒く荒ぶる波の写真。

    キャッチコピーには「海が創ったウィスキー」とあった。

    日本酒では、こういうイメージで売る事はないねえと、友人。

    確かに、荒々しい自然をそのまま、日本酒のイメージにしたものは余りないような気がする。

    マイナスイメージになるのかもしれないけれど、

    まさに生まれた土地そのものの厳しい風土に、誇りをもって、逆にそれを前面にだしている。

    よくはわからないまま、そこにスコットランド気質を感じた。

    実は、今朝、窓の向こうが雨空であることをみるまで

    すっかりその事を忘れていたのである。

    雨のスカイ島をめぐりながら、その荒涼とした風景を見渡しながら、

    そのウィスキーの事を思い出した。

    どんよりと重い空の下、ムーアといわれる低木に覆われた丘陵がつづく。

    海岸線に近づけば、海はどこまでも暗く、白く荒い波がしぶきをあげながら唸っている。

    その風景をみながら、あのウィスキーのパッケージの事、

    あの、スモーキーでどこか海草の味のするウィスキーの事を思い出した。

    スカイ島を廻りながら、海に面した小さな町Carbostに、その「Talisker」の蒸溜所を見つけた。

    そこにはヴィジターセンターがあって、工場見学ができるらしいが、

    この天候で、わたしたちと同じ考えの人たちが押し掛けていて、チケットはすでに完売になっていた。

    残念だけど、旅はいつもこちらが望むようにはいかない。

    それでも、そこに小さなミュージアムも併設されていて、次のような事を学ぶことができた。

    まず、この島の地理的な特徴から、1年を通して雨量が多い事。

    山並みに降り注ぐその天の恵みで、水が豊富で

    だからこそ美味しいウィスキーが創れる事。

    この土地にはピートが多く、そのためにスモーキーな風味が加わる事。

    海に面しているからこそ、生産物を世界中に輸出する事ができる事など、

    独特な風味のウィスキーがつくれる条件が整っていることを

    理解することができた。

    この蒸溜所の裏手には、豊かな水があふれる地下水があふれているという、

    その水は鉄分が多いせいで赤い色をしていて、それがまさにウィスキーのようにみえて、

    ゴーゴーと唸りながら荒波の海に飲み込まれていた。

    あたりは、ウィスキーの香り漂っていた。

    ウィスキーはそれが生まれる風土からから創られる事を、身をもって学んだ気がする。

    それも雨の日だったおかげで。

    帰りの飛行機の関係で、ウィスキーをそこで買う事はかなわなかったけれど、

    次に、このウィスキーをグラスにコロンと傾けたら、

    きっと、雨の日の荒涼としたスカイ島の風景が脳裏に浮かぶに違いない。

    2015/5/15

    beautiful
    stone circle skye
    Talisker sea
    Wisky Skye
  • 神の家からミュージアムへ:イスタンブール、アヤ・ソフィア

    この空気の厚みはいったいどこからくるのだろう。巨大ドームの下に立った時、今まで経験したことのないような重厚な印象をうけて唖然とした。様々な時代の様々な祈りの言葉が、千年の時を超えてこだまする。ここは、トルコの古都イスタンブールにある「アヤ・ソフィア」だ。

    turkey_0008

    ドーム頂上からは、アラブ文字の美しいカリグラフィーが、その下にいるすべてのものの上に降り注いでいる。ドームを支える四隅では大きな翼の天使たちが舞っている。建物の中空には、黒地に金色の優雅なアラブ文字が描かれた巨大な円がいくつも下がっている。

    turkey_0010

    その向こうには、金色の像が浮かんでいる。幼児キリストと彼を膝に抱えたマリアの聖母子像だ。

    そのマリアの足元に目を落とすと、アラベスクで飾られた祈りの場 -メッカの方角を示すミフラーブが、そして、その右横には、イスラムの説教師が座る高座、ミンバーがある。

    ここは、ある時はキリスト教の教会、ある時はイスラム教のモスクだった聖地。さまざまな時代のさまざまな祈りの声は、この建物がもつ実にユニークな歴史の渦巻きから響いてくるに違いない。

    そのはじまりは、この地がローマ帝国の新しい都になった時、禁じられていたキリスト教がはじめて公認されたコンスタンティヌス帝(紀元後4世紀)の時代まで遡る。つまり、サン・ピエトロ大聖堂と並ぶ、キリスト教ごく初期の最も重要な聖地なのだ。かつて、ここにはキリストが架けられたホンモノの十字架が収められていたという。

    やがてローマ帝国が滅び、15世紀になるとオスマントルコの土地となり、この荘厳な建物はモスクに換えられた。ある意味それはイスラムのキリスト教に対する勝利のしるしだった。

    ドームの頂上にあった十字架は三日月に、ビザンチン美術で飾られた聖壇は、ミフラーブに換えられた。床には絨毯が敷き詰められ、ドームの周りにはミナレットが建てられた。そして、みごとなイスラムの礼拝堂として生まれ変わったのである。かつての由緒あるキリスト教会は、モスクとしても、非常に重要な位置を占めることになった。

    turkey_0027

    再び、数百年の時が過ぎ、現在はどうかというと、非常に興味深いことに、もはやどちらの神の家でもない。オスマン帝国が滅亡し、1934年に、この国はトルコ共和国になった。初代大統領ムスタファ・ケマルの主導の下、近代化が進み、この神の家アヤ・ソフィアも世俗化し、「ミュージアム」になったのである。

    近代的技術で修復がすすみ、漆喰の中に隠れていたビザンチン美術が再び息を吹き返した。聖職者に換わって学芸員が配属されるようになった。ここを訪れる人々は、敬虔な信者ではなく、素晴らしい建築物や美術作品を愛で、過去の文化を学ぼうとする人々である。

    職業柄、これまでたくさんのミュージアムを見てきたけれど、こんなミュージアムははじめてだった。 ミュージアムといえば(宗教関係の資料を所蔵するミュージアムであれば)、かつて教会やモスクに飾られたり使われていたいたものが、オリジナルの文脈から切り離されて、その文化・教育施設の中にはいってくるのが、お定まりのケースである。しかし、ここは、宗教の場、それも世界二大宗教の場がそのままそっくりミュージアムになったのである。収蔵庫であり、展示室であり、修復現場であり、研究と教育の場であり、そしてなによりも人類が残した偉大な文化遺産だ。

    神に対する冒涜だとか、作られた時の目的のままに使われるべきだとか、あるいは人間はかつてのような宗教心をなくしてしまったなどと嘆いているのでは、毛頭ない。

    モザイクのキリストの顔も、数学的リズムが調和する文様やカリグラフィーも、それぞれに美しい。そうして、最初のポジションに立ち戻って、再び高いドームを仰ぎ見ながら、この建物が、1700年近い歴史のなかで、人々になんとさまざまな経験を与えてきたことだろうと、思いやってみるのである。

    (07/06/2014)

    P.S. 2020年8月から、トルコ政府の政策によって、またモスクに戻った。

  • 白熊(はくま)祭り

    昨秋、イギリス人パートナーとロンドンに住む台湾の友人と三人で、九州を旅した。彼らと一緒だからこそ、違う視点から自分の生まれたくにや文化がみえてきて、とても新鮮な経験だった。それらのいくつかを、Facebookで、「エゲレス人の見た日本シリーズ」と称して紹介してきたけれど、今日は、このブログで、そのマトメでもしてみよと思いたった。

    旅で、つくづく見直したこと、我ながら誇らしく思ったことは、このくにの地域文化の豊かさである。同じ九州だって、町がかわれば、食材が違う、川をひとつ越えれば、温泉の色や匂いが違う。 小さな町や村が、それぞれの文化を色濃く残していて、人々がそれをとても大切にしている。こーんな地域文化の豊かさは、イギリスにはない。ほんとにない。もちろん、地域の方言や名物はそれなりにあるけれど、日本のその多様性に比べたら、うすぺらで、平坦とさえいえる。

    なんでだろう?ひとつはっきりしてるのは、地形の複雑さ。このくにには豊かな自然がある、高い山々があり、谷川があり、海に囲まれている。島は縦に細長く、地域によって違う気候がある。地球の歴史のなかでも新しい土地だから、火山や温泉がある。そこには、多様な生物の営みがある。それがきっと、違う風景をうみ、違う感性を育て、違う食文化を育むんだろうなあ。

    ええとこあるやろ~? こんなんないやろ、イギリスに? 台湾だってかなわんちゃう?なあんて、思わず心の中でつぶやいてしまった。で、なぜか関西弁。

    「エゲレス人の見た日本シリーズ」の最後に、彼らもわたしも一番印象深かったものをご披露したい。それは、大分は湯平という風情ある温泉街のお祭り「白熊(はくま)祭り」、いわゆる収穫祭だ。

    夜の8時ぐらいから深夜にいたるまで、石畳の温泉街を子供たちの鼓笛隊や、男性の優雅な踊り、豪快なお神輿担ぎが練り歩き、家々を祝福してまわる。「志美津」というもてなしの宿で、繊細かつ独創的な夕食をいただいてから、下駄を鳴らしてお祭りの隊列に追いついた。見ていて、ああ、これは観光客向けではなく、地元の人による、地元の人のためのお祭りだと分かった。慣れない浴衣を着たわたしら三人グループが、高台にある神社のクライマックスまで、しぶとくついていったら、祭りの中核のおひとりが、声をかけてくれた。

    「どこから来たの?」

    「イギリスです」

    「あー、遠くから来てくれたんだね。自分、ラグビーするんだけど、イギリスのラグビーってのは、頭使わないで体当たりだね」

    「あ、僕の父もラグビーやってました」・・・

    そういや、お神輿担ぎの岸和田祭りにもつながる豪快さは、ラグビーのタックルのようだった。最後までついてきたことに対して逆に感謝されてしまい、特別な御祓いや、お神酒までご馳走になった。

     湯平の文化が末長く続きますように。 


    <白熊まつり:湯平温泉街石畳の坂道で> 風情ある温泉街の石畳の坂道を、お祭りの隊列が進む。重いお神輿を担いだ若者たちが、狭い道イっパイ駆け巡る。その勢いがあまりにすごいので、見物人は道の両脇に張り付いてる。

    <白熊まつり:湯平温泉神社 クライマックスその1> 200段以上の階段を上がったところにある谷川神社の境内いっぱい、お神輿を振り回すとてもエネルギッシュなイベント。最後は、お神輿を神社に投げ込むようにして、安置する。終わった後に、感涙する若者もいるとか。

    <白熊まつり:湯平温泉神社 クライマックスその2> お神輿が、神社に帰った後は、長い棒を操るとても優雅な踊りで締める。棒の先の白い房から、白熊の名前がついたという。

  • 新しいアムステルダム国立美術館

    十年の歳月をかけて大掛かりな改装工事をしていたアムステルダム国立美術館(Rijks Museum)が、2013年4月にリニュアルオープンした。昨年11月にオランダを旅した折、わたしとしても十年ぶりに訪れる機会を得ることになった。

    この国立美術館は、いやゆるオランダの黄金時代といわれる十六世紀芸術で有名だ。レンブラントの「夜警」もここにある。しかし、ここで、その素晴らしいコレクションについて語る気はない。それよりも、この美術館が挑戦した美術館としての「新しい空間づくり」について、お話したい。

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    まず驚いたのは、エントランスである。伝統的なミュージアムは、まず例外なく、正面に階段があり、それを上がって入っていく構造になっている。

    それは、ミュージアムは「美の殿堂」であるべきだという考え方からきている。神殿に入るように厳かな気持ちになるよう演出されているわけだ。この美術館は、ルーブル美術館に倣って、1885年に造られたのだが、同じようにその定石を踏んでいた。

    ところが、外観は昔のままにしながら、リニュアルしたこの美術館では、エントランスがガラッとかわったのである。写真からもわかるように、石造りの建物の中央にアーチ型の屋根の三つの通路があるが、自転車も行き来するその通路にはいっていくと、その両側に大きなガラス張りの壁面があり、そこから、外光のはいる明るいホールが見渡せるようになっている。反対側には、ひろびろとしたレストランや人々の寛いでいる様子が手にとるようにわかる。

    ようするに、ここを訪れた人はまず、この美術館の開放的な空間に引き込まれ、そして、ガラス戸扉を開いて、階段を「降りていく」=「浸っていく」のである。

    Rijik museum 2

    この最初の入り方は、来館者の心理的な経験を変えるにちがいない。

    かつての美術館の空間は、崇高な気持にさせられたり、圧倒されたりするものだった。それは、時に、精神的な疲労を導く経験だった。そもそも、美術との出会いはそのような崇高なものであるべきだと考えられていたからだ。

    ところが、近年、そうした伝統的な美術館のあり方に疑問が投げかけられるようになった。もっと、明るく、オープンで、親しみやすいものになってきている。言い換えれば、まず芸術がありきではなく、それと出会う人々の経験を重視しようと試みはじめているのだ。

    私自身も、その入り方が、その後のギャラリー内の見学に少なからず影響を与えたように思う。 加えて、ギャラリー内の構造も配慮が行き届いていた。シンプルでわかりやすいルートづくり、ひとつひとつのギャラリーの適度な大きさと、適度な展示物の数、ところどころにおかれたベンチ。

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    また、従来のように、絵画なら絵画だけとか、陶磁器なら陶磁器だけというような、衒学的なジャンル分けがなされるているのではなく、大雑把な時代ごとに、その時代に生み出された物が、絵画でも陶磁器でも家具でもいっしょに並べられているのも、新鮮だった。

    そういう構成はややもすると、ごちゃごゃした感じになるが、そうではない。むしろ、とても有機的で心地のよいものであった。ある時代を知るうえでも、その変化を見る上でも有意義な見学になった。

    難をいえば、もうすこし、レストランとかカフェテリアの空間が広くて、トイレももっともっと要所要所にあればよいと思ったけれど、贅沢はいうまい。まずは、来館者の経験を中心にすえて配慮された新しい美術館の誕生におめでとうを送りたい。


    (22/01/2014)

  • 戦争を語る展示2:広島平和記念資料館

    広島平和記念資料館に行った。十歳の時、親に連れられ尋ねて以来である。あの時は資料がずらーと並んでいるというだけの印象だったが、それでも着物の柄が皮膚に張り付いた女性の写真や真っ黒な弁当箱、人影がくっきりと残るコンクリート壁などを鮮明に覚えている。

    現在の資料館は、ずっと博物館らしく充実していた。1995年の改築時に大きく変わったのだろう。まず今回のポジティブな感想は、パーソナルな語りが充実していたことだ。それも物と直結したストーリーである。

    た とえば女学生の下駄。

    ピカドンの後、ある母親が娘を探し回り、結局この下駄だけがみつかった。その鼻緒は母の着物でつくられていて、下 駄には娘の足跡が残っている。現物の下駄と、娘の実名、母が探し回り、鼻緒からそれが娘のものとわかったことなどが語られている。

    従来の展示手法のように、物を資料的に展示することで、できごとが抽象的に語られるのではなく、

    このように実物を介してパーソナルな記憶を語ることによって、その負の記憶は見る者、つまりはその記憶が受け継がれるべきも者の心に深く響くのではないかしら。

    このような手法は、近年、欧米のミュージアム、特にこのような負の遺産を扱うミュージアムでは主流になっている。日本もすこしずつ増えてきているならば、よいのだけれど。

    だけれど展示の全体的な構成には首をかしげてしまった。ひとつのできごとを東館と本館と違うアプローチで語っているのだ。

    東館が歴史的検証をしているのに対して、本館が焦点をあてるのは被爆者の体験という具合に。分けたからには、何か理由があったのだろうが、来館者からすれば、見学経験が 途切れてしまい、混乱を招くだけではなく、せっかくの体験が希薄になってしまう。館の統合的カタログは、構成がちゃんと考えられひとつの本になっている。 なぜ展示ではできないのだろう。

    GOOGLEで、面白い記事をみつけた。3時間かけてみるべき展示なのに、平均的見学時間は45分ほど。結果 的に、後半の本館はほとんど素通りするだけなのだそうな。で、それを解消すべく、本館から先にみてもらえるように改装をしつつあるらしい。だけど、見学順 路を変えればOKっていう、そんな話しだろうか?

    もうひとつ気になったのは、その東館の方。

    原爆が広島に落とされた主たる原因について、加害者であるアメリカの国立歴史博物館が語らなかったことにきちんと触れている。それは、戦後の日本を含めたアジアへの覇権争い(主として対ソ連)だ。

    その反面、語っていないことがある。フクシマのことだ。

    原爆と原発は切っては切り離されない問題なのに、あの重要なできごとについて、しかももう2年の歳月がたっているのに何のメッセージもない。チェルノブイリについての展示コーナーはあるというのに。

    きっ と、さまざまなプレッシャーがあるに相違ない。そのプレッシャーは、ここが日本で外国人が訪れるNO1なのに、いや、なにより国が関わるべき重要な記憶の はずなのに、国立ではなく市の財団の運営であること、今だに「博物館」ではなく「資料館」という名称であることと、裏腹なのではないだろうか。だとした ら、病巣はほんとうに根深い。

    気をとり直して、もう一度ポジティヴな面でしめくくろう。

    展示をひととおり見おわると、丹波健三がつくった建造物の大きな窓列に沿って歩きながら、出口に導かれる。

    その窓の向こうには、記念公園や現在の広島市が見渡せる。

    過去の遺産とそれを受け継いだ土地の現在を見る-ミュージアムは、過去を過去で終わらせず、現在や将来とつなげて語らねばなるまい。

    (17/10/2013)