カテゴリー: 旅

  • 高貴な人々の谷、職人たちの谷:ルクソール

    ルクソールのナイル川西岸、太陽が沈む側の赤い扇状の山々の谷は多数の王の墳墓が連なっている。
    有名な「王家の谷」である。

    Valley_of_The_Kings_Luxor_45b28aa683d63
    新王国の時代(紀元前16−11世紀 )、ルクソールはかつてテーベと呼ばれた都だった。エジプト王国が繁栄した時代の都、古代の世界の都だ。
    古王国時代の王墓であるピラミッドからすれば、一見、山肌の横穴でしかないのだが、ひとたび、その穴に入れば、色の世界が待っている。
    王の墓室に描かれた壁画は王のパワー、神々とのつながりを幾何学的構成にのっとって、細部に至るまで丹念に描く。
    そんな墓が、この谷に現時点で60はあるという。

    だが、5日間、カイロやルクソールの他地域で、あまりにも多くのパワーのイメージを見続けてきて、正直、ちょっとおなかいっぱいです〜という状態になってきていた。


    それが、「王家の谷」のすぐそばにある「高貴な人々の谷」や「職人の谷」に行ったときは、前者にはみられないような、日常の人々の生活の様子が描かれていて、とても興味深かった。

    前者は王に使える高官たちの墓で、後者は墓を建築するエンジニアーや石工、画家たちの墓である。
    その隣には職人たちの住居跡があった。

    deir-el-medina-overzicht

    農耕をする人々や墓づくりの様子やフェスティヴァルや宴会の様子などが生き生きと描かれていた。
    ぶどうが天井いっぱい覆っていたり、満天の星空が天井を埋め尽くしていたり、妻との仲睦まじい様子が描かれていたり、ワインをふみつけて絞り出している人がいたり、おどりくるってトランス状態になっている様子が描かれていたり、サルが供物を盗み食いしていたり。。。
    明るく楽しいイメージが部屋いっぱいにひろがっていて、墓室というより、子供部屋のようなところさえあった。

    壮大なピラミッドや神殿は、たくさんの奴隷たちが下働きをしたという見方は、ハリウッド映画がおしつけた偏見だ。
    そうではなくて、技術と誇りをもった技術者や芸術家たちが携わったのである。

    給料が与えられ、時にストライキもした事が記録からわかっているそうだ。

    あの偉大なピラミッドもカルナック宮殿も彼らのような人々が作り上げたのだ。
    この高官の谷や職人の谷に連なるひとつひとつの墓室をみていると紀元前の人々のプロフェッショナルな仕事ぶりや生活ぶりがまるできのうの事のように思えて、
    なぜか、目が潤んでしまった。

    色で満ちた生の世界から外にでると、今度は砂が吹く単色の現世が待っていた。

    そして、ふと思う。

    わたしがみた色鮮やかなすばらしい芸術は、生きている人々の鑑賞のために描かれたのではない。

    本来は厳重に閉じられていて、あの世に属ずるもの−死者のためだけの隠された表現なのだ。芸術の意味や役割がわたしたちとは根本的に違うのだろう。

    ルクソールの観光王道は「王家の谷」だが、ここまで足をのばしたなら、すぐ隣にある「高貴な人の谷」や「職人たちの谷」にも、ぜひ訪れてください。

    (残念ながら、墓室内では撮影禁止でした。)

    2017.1.13

  • 壮大なるカルナック神殿、ルクソール

    こんな壮大なスケールの建築はみた事がない。
    50ウン年の人生で、南米大陸以外のさまざまな国に旅したけれど、
    インドのタージーマハールも西安の兵馬俑もローマのコロセウムもあるいはアテネのパルテノン神殿も、ルクソールのカルナック神殿にはとうてい及ばないだろう。
    写真や映像は何度もみてきたが、実際に自分の足でそこに立ってみないとその大きさを実感できまい。
    それを構成するひとつの柱だって、150Mの高さ、太さも10人で抱えるようなサイズだ。それが120本以上も林立している。
    神像もオベリスクもありとあらゆる構成要素が巨大だ。
    ガイドをお願いしたハッサンによると、実際に世界最大の神殿だそうだ。

    この神殿の主要な部分は、エジプト王国がもっとも栄えた紀元前16-11世紀に作られた。
    後に、「新王国」と名付けられた時代である。
    今のようなテクノロジーがない時にどうしてこんな巨大な建造物を作り得たのか。
    ギザのピラミッドも驚いたけれど、古代エジプト人の智恵や成し得た事業には、恐れ入ってしまう。

    神殿の主は、太陽神アメン(アムン)を中心に、その妻ムトと息子コンスというこの土地の神々。
    古代エジプトの神々で興味深いのは、家族構成になっている事だ。
    そういえば、日本の神々もギリシアの神々も家族構成があり、命と永続性を語ろうとしている。

    カルナック神殿や神々については、たくさんの読み物があるので、ここではわたしの興味に引っかかった事を覚え書きしておきたい。

    一番目に、立地的地理的条件の背景にある意味。
    正門は建物の東側になる。
    コンプレックス全体の中央にまっすぐな道がのびており、最も神聖な場所へと続いている。
    巨大な城壁で囲まれたセクションがいくつも重なっていて、聖なる道は城壁の門を通って中央を奥まで抜け、その門の両脇には巨大な神像が立っている。
    はじめのセクションは一般人が参列できるところ、次は位の高い人々、次はもっと高位の人々、最後は王と最高位の神官しか入れない。
    ある本によると、この建築構造も後のキリスト教教会の基本構造に影響を与えたのではないかという。
    確かに、一般人が参列する身廊と奥にある礼拝の場所は区切られている。

    カルナック神殿の場合、その位置関係は太陽の動きと関係があるらしい。
    夏至(冬至かも?ハッサンの説明を聞き漏らしてしまった)になると、日の入りの時間、神殿中の神殿がまっすぐ太陽を崇めるよう、計算されているのだ。

    紀元前のエジプトの人々が、天文学的な知識と数学的知識があったことを意味している。

    dsc_0026-1-copy
    dsc_0031-1-copy

    二番目に、毎年おこるナイルの洪水をうまく利用し、そこに意味付けを加えていること。
    最初の門はナイル川に面している。
    古代、神像を載せた儀式の船が川岸につくと、神官たちは神々が乗った船を肩にのせて門に入る。聖なる道の途中は普段水が侵入しないように少し高くなっていて、行列はスロープをいったんあがって、今度は最初の門にむかって下がっていく。
    その道の両脇には羊の頭のスフィンクスがずらーっと並んでいる。
    それから聖なる行列はいくつもの門をこえて、奥へ奥へとすすんでいくのだ。

    極彩色の旗がはためき、音楽が奏でられ、お香が炊かれていたことだろう。

    目を閉じれば、スペクタクルな儀式が脳裏に浮かぶようだ。

    夏、ナイル川があふれると水が自然に神殿内にはいってきて、建造物の下部全体をおおってしまう。時がくればやがて水はひけていく。
    それを古代の人々は神殿全体の禊ぎと解釈した。時に脅威ともなる自然の力を、彼らは畏敬の念をもって受け入れたのである。

    dsc_0031-1-copy
    dsc_0104-1-copy
    dsc_0021-1-copy
    dsc_0058-1-copy

    三番目に、何世代にもわたり、地理的なつながりをつくったこと
    カルナック神殿が、トトメス3世やアメンホテプ3世、ラムセス2世など何世代かの王によって、徐々に巨大化しただけではなく、
    後の王たちが別のエリアに神殿をつくる時には、新しい聖地をカルナック神殿とつなげた。
    例えば、数キロメートル離れたルクソール神殿を建造するとそことカルナックをつなげるまっすぐな道をつくり、その道の両脇には何百というスフィンクスを並べた。
    驚くべきスケールだ。

    また、女性の王であるハトシェプストが、ナイル川の対岸に神殿を作った時には、川を挟んでカルナック神殿と響き合うような位置が選ばれた。

    ひとつの神殿は独立しているのでない。他の神殿や聖なる場所と繋がりあい、立地の中で、風景の中で意味をなすのである。

    四番目に、王と王妃の親密さを表す表現がたくさんみられた事
    神殿は、神々の偉大さだけではなく、王の神々への信仰の深さや彼らの偉大さを表現する場だ。
    それらのイメージは圧倒的で、かつパターン化されていて、
    訪れる現代人には、時にお腹いっぱいになってしまうこともある。
    でも、わたしが面白いと思ったのは、王と王妃の親密さを表す表現をいくつか目にした事だ。そこには神格化したファラオたちの人間的な面がみられる。
    そのしぐさも表情もなんと優しい事か。
    衣服の線も透けて見える体の線も実に優美だ。
    思えば、日本の歴史では女性たち(生む性を表した土偶やアマテラス大御神は別にして)はあまり登場しない。
    王と王妃がそろった表現は、少なくともわたしはみたことがない。それはある種の民族性なのだろうか?

    dsc_0051-copy
    DSC_0053 copy

    最後のおまけに、この巨大な古代遺跡に憧れて、様々な時代に西洋人たちが訪れたのだが、彼らは自分の名前をそこに彫り込んでいった事。19世紀のイギリス人の名前もみられる。なんとメディチの名前もあって驚いた。メディチのグラフィーティー!18-19 世紀の西洋人が古代エジプトに憧憬したのも深くうなづける。

    dsc_0023-copy

    普段、わたしは仕事でロンドンの大英博物館のエジプト展示室で歴史講座を開いたり、ご案内したりしている。

    しかし、ロゼッタ・ストーンやラムセス2世の像など、大英博物館の中にある展示物どんなに素晴らしくても、バラバラになったアイテムにすぎない。

    それらのひとつひとつを、オリジナルの風景の中で、あるべきセッティングのそのスケールの中で、ものとものとの関係が結びつくコンテキストの中で、実感したい。

    それが今回のエジプト旅行の大きな目的だった。

    ミッション達成である!

    今度、大英博物館で仕事をする時には、なるべくそのスケールを感じてもらえるよう、コンテキストの中で展示物をみていただけるよう、心がけたい。

    エジプトからいっぱいいただいたので、日本のみなさんに還元できれば幸いです。

    2017.1.17.

  • 世界三大宗教とカイロ:旧市街

    エジプトならピラミッドとスフィンクスというのは、日本は富士山・芸者というに等しい。
    そんなステレオタイプな見方から、今日は わたしが垣間みたエジプトの歴史の多様な側面について書こう。

    カイロの東側は市場やモスクが並ぶイスラム地区が、南部には古いカイロの街がある。
    エジプト3日目、わたしたちは、その古いカイロの街を歩くことにした。
    そこは、コプトといわれる初期キリスト教の文化が花開いた街でもある。

    かつてのバビロン要塞の橋の上に作られたために、ハンギングチャーチと呼ばれる「聖メアリー教会」は9世紀(7世紀説も)には存在したという。

    dsc_0201-copy
    ここには、イスラム文化とキリスト文化のみごとな融合がみられる。
    例えば、この木製ドア全体はイスラム文化に特徴的な細かい木彫りが施されているが、
    よくみると周囲は十字架に囲まれている。
    教会の中央にある演説台も、ミスバといわれるモスクにあるにそっくりだ。
    ここには、イコンが110点もあり、なかには9世紀に描かれたものもあった。

    dsc_0206-copy
    dsc_0224-copy

    また、聖セルギウスと聖バッカス教会も11世紀の建物で、そこにある柱はなんと4世紀に遡るらしい。
    この教会は、赤子のイエスを抱いたマリアとその夫のヨゼフ-聖家族が、イスラエルでの嬰児虐待から逃れるために、
    エジプトに逃亡した時に休んだ泉の上に作られたという。
    よく西洋美術のテーマになった「エジプトへの逃亡」の話がこの地に存在するなんて驚きだ。
    この教会の地下にはその泉があったし、聖家族がどのようにエジプトを移動したのかを説明するパネルがあった。

    dsc_0256-copy
    dsc_0258-copy

    dsc_0274-copy
    地元の家族だろうか、その泉にひざまずいてキスをしていた。
    彼らはコプト教会の信者に違いない。
    真偽のほどはさておき、その独特の雰囲気は忘れがたい。

    dsc_0263-copy
    dsc_0268-copy

    この近くには、ユダヤ教の古いシナゴーグもある。
    そこにも、キリスト教やイスラム教と相通じるシンボリズムや建築様式がたくさんみうけられた。
    昨年末、カイロのコプト教会で爆破事件がおきたけれど、三大宗教が共存して花開いた土地なのだ。

    さらに興味深い事は、そのキリスト教、イスラム教、ユダヤ教そしてギリシア美術に、古代エジプトの文化美術が大きな影響を与えていることだ。
    それをみごとに伝えるのが「コプト美術館」である。
    この美術館には、すばらしいコレクションがあるだけではなく、美術館のイスラム建築もすばらしいし、エジプト博物館よりよくオーガナイズされている。

    たとえば、古代エジプトの命のシンボルであるアンクが、なんと、十字架とかさなったもの。

    8637387_f520

    古代エジプトの神でアイシスが息子ホルスを膝の上に抱える図と、イエスを膝にのせたマリア像。
    アイシスもマリアも神の力で身ごもったと語られることもパラレルだ。

    isis_mary

    2017.1.11.

  • ピラミッドの中へ、ギザ

    カイロから地下鉄とタクシーを乗り継いで小一時間、
    四角い近代的ビルが林立する町の向こうに、
    巨大な三角形の頭が目にはいった。
    子供の頃から何度もそのイメージをみてきたギザのピラミッド 群だ。
    さらに近づくと、あのスフィンクスも見えてきた。
    その圧倒的な存在を今自分の目でみているのだと思うと実に感慨深い。
    紺碧の空を背景にして、赤茶色の建造物が美しい。
    後ろにひろがるのは砂漠だから、古代大建造物を邪魔するものがない。
    あるとしたら、せいぜいらくだ乗りやお土産をおしつけてくるエジプト人ぐらいだろう。
    色鮮やかな民族的カーペットを載せたラクダは、むしろ彩りを添え、どのアングルできりとっても絵になる。
    土産売りやラクダ乗りの商売人たちを適当にかわしながら、ピラミッドやスフィンクスの周りをしばらく歩き回った。
    1月、カイロの冬は、19度~23度ぐらいで、風も心地よい。dsc_0094-copy

    エジプトには90ほどのピラミッドがあるといわれる。
    中でも最大のクフ王のピラミッドは、なんと紀元前2500年ぐらいにできたものだ。
    今から4000年以上昔の人々がどうやってこんな巨大な建築を成し遂げたのか・・・、
    宇宙人がつくったんじゃないかとかさまざまな風説があるけれど、
    実際に自分の目で眺めれば、それがまことしやかに思えてくる。
    石組みは見事に磨かれて、滑らかに統一された表面をつくりつつ、一寸の隙間なく組まれている。
    四辺の底辺のを作るのは比較的シンプルなエンジニアリングかもしれないけれど、
    頂点を底面中心の真上にもってくるように、徐々に組み立てていくのは、
    数学的・幾何学的・天文学的知恵がなくては、不可能なことだろう。

    dsc_0100-copy

    実はこのピラミッドには中に入ることができる。
    特別なチケットを買って、小さな冒険をすることにした。
    入り口でおじさんに、「また明日あいましょう!」と声をかけられた。
    「あの世であいましょう」と答えた。

    暗闇の中、細い道が奥までずっと続いている。
    その道は、石の壁と天井で囲まれている。
    最初は低天井で、頭を石にぶつけないよう60度かがみながら、上っていく。
    向こうからおりてくる人とギリギリですれ違いながら、だんだん空気が薄くなるのを感じながら、
    小さな空間を経ると、こんどは、うんんと高い天井のところにでた。
    のぼっていくのに必死で、ゆとりなんかなかったけど、ふと、壁や天井をみあげたら、そのひとつひとつの石工が実にすばらしい!
    板状に削られた薄い巨大な石板が見事に組み合わされている。
    膝をガクガクいわせながら、一息ついて、古代の人の知恵と技術に見入った。

    img_6136

    一番おくまでいくと、待っていたガードのおじさんが最後の部屋に招きいれ、トーチを照らして、部屋の隅々をみせてくれた。
    6畳ぐらいの石で覆われた部屋は、石棺がおかれているだけ
    真ん中にたつと声が部屋中にこだまする。なぜか空気が暖かい。
    ここがクフ王の黄泉の国に続く家なのだ。

    帰りは、同じ細道を下っていく。
    ピラミッドの外に出ると、急に明るい太陽の下、広がる青空とその下のギザの町がみえた。
    地元エジプトの観光客や海外旅行者や、彼らを相手に商売をする人々の生き生きとした様子が目にとびこんできた。
    うちへうちへと入っていく暗闇の世界と音と色の鮮やかな現世とのコントラスト!
    ピラミッドの内部は、みごとな石工以外、みるべき宝はないに等しい。
    だが、ガイドブックが唱うように、「ピラミッド内部の経験をしよう!」というよりも、
    ピラミッドからでてきた時のこのコントラストを感じたことの方が、わたしにとっては代え難い経験だった。

    dsc_0115-copy

    2017.1.8

  • 女性の半身をもった古代王:エジプト博物館(カイロ)

    カイロの中心地にあるホテルに着いたのは朝6時前。

    一休みして、わたしたちの旅を宿から徒歩圏にある「エジプト博物館」から始めることにした。

    クラクションを鳴らして猛スピードでとばしてくる車の流れを必死にかわして、広い道路を渡ると、タフリール広場があった。

    2014年のエジプト革命の時に運動の拠点になり、TVカメラが何度も映し出していた。

    その向こうにそびえる赤茶色の西洋風の建物が目指す博物館だ。

    800px-the_egyptian_museum

    厳重なセキュリティーをくぐって中に入ると、欧米のミュージアムに慣れている目からは、ケアが行き届いていないことがすぐ目についた。

    だけど建物自体は大英博物館のサイズに負けてはいない。

    しかも、そのほとんどが、古代エジプトのお宝で埋め尽くされている-古代エジプト文化/美術については文字通り世界最大級の博物館である。

    朝食を摂っていなかったので、ミュージアムカフェでまず落ち着いて、エネルギーを得てからいざ出陣という計画だったけれど、

    館内で簡素なフロアーマップをみてもカフェらしきものが見当たらない。

    そればかりか、展示についてのラベルも解説文もほとんど見当たらない。

    一緒にいった友人は、情報がないのがフラストレーションだとしきりに文句を言っていた。

    だが、覚悟を決めて、自分たちの感性だけで動き回ろうと決めた。

    古代エジプトについては、大英博物館でちょっとは勉強しているので、ある程度歴史背景やシンボルの意味は心得ている。

    知識のフックがあるなら、むしろ感性が赴くままに、お宝の中を動きまわるのも、知的感覚が研ぎすまされていいかもしれない。

    わかることなら友人にも教えてあげられる。

    果たして、大英博物館にはないようなさまざまなユニークなものをみることができた。

    有名なツタンカーメン王の黄金のマスクや棺はそのほんの一角でしかない。

    3000年の歴史を通しての表現の多様性は驚くばかりだ。

    なかでも、わたしにとって興味深かったものは、文化的革命王といわれる「イクナートン」にまつわるものをたくさんみたこと。

    イクナートンは決して王の像によくある理想的な美男子として描かれていない。

    細長くて、頬骨が高くて、あごがつきでている。

    離れたところからも彼の顔だと気がついた。

    pharaoh_akhenaten Wikipedea

    ところが、近づいていくとなんと、さっきまでは視界が遮られて、胸から下がみえなかったのだが、

    その下半身はどうみても、グラマラスな女性のものだ。

    腰周りはぐーっと極端にくびれて、臀部は埴輪の女性像のようにずんぐりしている。

    え、ほんとうにこれ「イクナートン?」と、思って、たまたまそこにはついていたラベルをみたら、やはりそうだった。

    面白い!

    間違いなく故意にデフォルメされているわけだが、

    だとしたら、男性王を女性的に描くことにはどんな意味や背景があるのだろうか?

    この巨大な博物館を見回しても、こんな像はみたことがない。

    (館内では写真が撮れなくて、ごめんなさい)

    周知のように、エジプトの宗教はその長い歴史を通して多神教だった。

    その中で、イクナートンは、太陽神アムンを中心とした一神教にかえた革命児だ。

    当然ながら、伝統を守ってきた神官や高級役人からは疎まれた。

    イクナートンは平和主義的な王であり、他国に脅威を与えることをよしとしなかった。

    これも、軍人を中心とする多くの上流階級には面白くないことだった。

    その結果、暗殺されたとされている。(その後継者があのツタンカーメン王)

    だが、イクナートンの時代は特異な文化が花開いた。

    その数々が、この博物館の最も奥にある重要な部屋に集まっているのだ。

    思えば、エジプト旅行を決めたのも、1年半頃前に、「イクナートン」をテーマにするオペラをみたからだった。

    その時、イクナートン役をしたのは、カウンターテナーという女性のように高い音域をこなすシンガーだった。

    その妻、絶世の美女の王妃ネフェルティティ役は、ソプラノではなく、低い声のアルトであった。

    でも、そのジェンダーと声のクロスが非常に美しいハーモニーをつくった。

    今日、この地にきて、イクナートンとネフェルティティの両性が融合する似姿を目にして、しばらく感慨にふけっていた。

    宿に帰ってから、同宿の海外旅行者たちと話していたら、

    ほとんどが、意味も何もわからず膨大な数の考古品をみてまわるだけだったという。

    情報不足はむしろ全体的体験を損ねるものだろう。

    せっかく世界規模の博物館にやってきて、もったいないことだ。

    適切な量のわかりやすい解説が必要だ。

    そのほかにも、カフェがないことなど、

    ミュージアムマネージメント的に改善すべきところがたくさんあった。

    だけれど、現時点でのエジプト政府にとっての難題はなんといっても運営資金に違いない。

    人々がいうには、2014年の革命以降、観光客が激減したという。

    エジプトは観光立国であることを思えば、かなり厳しい状況なのだろう。

    この博物館が少しでもよくなることを祈りつつ、

    最後にこれから旅する人のために覚え書きをかいておくことにする。

    <エジプト博物館へ行く人のための覚え書き> 2017・1月
    1 カメラはもって入れず、セキュリティーに預ける

    2 カメラを利用するならば、入場料とは別にチケットを買わなくてはいけない (EP 50) わたしは後でガイドブックを買えばよいと思ったが、なんとショップに英語も日本語もガイドブックがなかった!だからカメラチケットを買った方がよい

    3 博物館に入る前にガイドを雇うのも一案。だが、知識と経験あるよいガイドを探してほしい。悪いガイドだと、ハイライトだけつれていって、ちょっと何かいっておしまいということもあるらしい。だが、よいガイドなんてどうやってわかるのだろう? それが問題だ。

    4 かなり広いのにカフェもレストランもない。博物館の周囲にも入りやすいカフェやレストランがない

    5 エジプト博物館には入場料とは別に王族のミイラの部屋に入るときには特別チケットがいる

    6 博物館建物内にはトイレはない

    2017.1.6.

    注意:2024年には、その博物館はギザに移転し、リニュアルオープンした。いつか再訪して、どう変わったかみてみたい。

  • 美術館に飾られるBANKSY、アムステルダム

    2016年末、アムステルダムの美術館でバンクシーをやっていると聞いて、

    ロンドンから弾丸旅行をした。

    バンクシーのファンであるだけではなく、ストリートアーティストの作品を美術館という場でどうみせるのか、どんな社会的インパクトがあるのか、自分の目で確かめたかったからだ。

    最初は懐疑的だった。

    ストリートに生きるはずのアート作品が、「美術館」という限られた空間ではうまく生かせないんじゃないの?とか、

    警察や国家などの権威に対して、反骨精神をもって向かうのがバンクシーらストリートアーティストの姿勢のはずで、

    彼らにとって「美術館」もある意味権威に違いないのに・・・、

    結局、そっちにとりこまれちゃったわけ?

    ・・・・なんて、かなり疑い深い気持ちが正直あった。

    ところがところが、さすがのバンクシー。

    展覧会をみてきて、この人はやっぱりホンモノだと思ったね。

    アムステルダムでは、ふたつのミュージアムでやっていた。

    Beurs van Berlage という中央駅前にある立派な文化施設と Moco Galleryというゴッホ美術館の隣にある現代アートの美術館。

    特にMoco Gallery が面白かった。

    ここは、20世紀はじめに建てられたモダンな邸宅が美術館になったところ。

    美しいステンドグラスとか暖炉とかキャビネットがとかがある、とても洒落た建物。

    ストリートアーティストたちが普段活躍する、廃墟ビルとか汚らしい横道とか、高架下とかとは正反対の空間だ。

    そこに、バンクシーの作品がしっくり馴染んでいるなんて、とてもいえないけれど、逆に、そのコントラストが、興味深く、圧倒的だ。

    だから、美術館に取り込まれたのではなくて、きっとバンクシーはそのギャップを狙ったんだ、と思った。

    部屋ごとに「兵器」「監視社会」「商業主義」「それでも希望がある」といったテーマがある。

    作品の一点一点も、額にはまっていたり、彫刻台にのっていたり、一点一点に解説がはいっていたり、典型的な「美術館」の見せ方だ。

    作品の横にちんまり解説ラベルが貼られていることなどに、はじめは笑えてしまった。だって、ストリートアートは、美術を読み解くリテラシーのある一握りの人々だけではなく、

    町に生きる一般の人々に向けた直接的なメッセージすることが命であり、現代美術館によくあるような難解な作品ではない。

    ほんとうはバンクシーの表現に「解説」なんて無用なんだから。

    でも、作品の一点一点をみるうちに、

    実は、この「美術館」という空間で展覧会自体をやることが、

    彼の裏返しのコンセプトなのではないかと思えてきた。

    そこには、わたしを含め、見に来た観客もが巻き込まれている。

    アートって誰のためのものなのよ?

    美術館って何よ?

    つまるところ、アートって何なの?

    「美術館に展示されたものがアートである」

    というわたしたちの概念に、逆説的にパワフルに問いかけてくる。

    一点一点の作品だけではなく、この展覧会全体をふくめて、わたしたちが生きる社会について、裏返しの視点から考え直させてくれる。

    たぶん、絶対的な答えなんてないんだろう。

    だって、アートの定義はその時代に生きる人々が作っていくんだから。

    むしろ、つくられた定義に迎合したりせず、その限界に果敢にチャレンジし、命がけで根本的な問いかけをしてくる、それがホンモノのアートだと、わたしは思う。

    レンブラントも、ゴッホも、アンディ=ウォーホールもそうだったように。

    それがアートの力だと、今回の展覧会をみて再確認した。

    ストリートアートのすばらしさのひとつは、そのユーモアにある。

    笑いには、愛が裏打ちされている。

    どんなに困難な社会に生きようと、人間がもちえる、すばらしいバランス感覚だろう。

    この展覧会は、「Laugh Now 」というタイトルだ。

    展示された作品の中に、猿が首から看板を下げているものがあった。

    そこには、こう書かれている

    「Laugh now, but one day we’ll be in charge」

    なんとブラックな風刺のきいたメッセージではないか。

    それでも、わたしたちは、少なくとも、バンクシーの展覧会に巡り会えた。

    一点一点の作品を、同時にこれを見に来たわたしたち自身をも、

    笑い飛ばせることが今日の幸せだと思う。

    明日からエジプトにいく。

    2011年、アラブの春の時、かの地では、たくさんのアートがストリートに花開いた。

    でも、権力側は、反体制的な「ゴミ」として、みごとに一掃したのだそうだ。

    もし、残っているならば、是非、アートの力に出会ってみたい。

    dsc_0237
    dsc_0244
    dsc_0256
    dsc_0259
    dsc_0262
    dsc_0282
    dsc_0284

    2017.1.1

  • 全てを抱いて、宙に浮く:ケーテ・コルヴィッツ

    目をみはって少女は怒っていた。

    展示壁には、たくさんの自画像 − ひとりの人生が並べられている。

    年月が過ぎ、少女は老いて、

    今や彼女の目はうつろだけれど、ごつごつした手には様々な感情が交錯する。

    kollwitz-self-portrait-

    次の展示室に足をすすめると対象は群像になる。

    貧しい人々、働く人々、母親、子供たち。みな社会的弱者だ。

    ドロゥーイングから、エッチング、木版画、そして彫刻。

    弱い人々に対するシンパシーと同時に憤りがこめられ、どれもこれも、とてもパワフルだ。

    なかでも心動かされたのは、死んだ息子を抱く母である。

    慟哭の顔、魂がぬけたような顔、命がけで守ろうとする大きな腕、幼い顔を優しく抱く皺だらけの手・・・

    時に、死んだキリストを抱えるマリア、ピエタ像と重なる。

    違うメディアで、違うアプローチで、これでもかこれでもかと同じテーマに迫る。

    女性アーティストの名前は、ケート・コルビィッツ Kathe Kollwitz 。

    第一次、第二次大戦と戦争の時代を生きたドイツ人である。

    彼女もまた、第一次大戦で息子を、第二次大戦では、孫をなくした。

    戦争に対する非難を表現してきたために、本人や夫もナチスに脅迫された。

    作品の圧倒的なパワーは、自分が生き抜いた苦悩の深さからくるに違いない。

    もうひとつ、よく使われたモチーフに、宙に浮く人体を描いたものがある。

    時に亡骸のように見える。

    一縷の望みを抱いて飛ぶ人間そのものにも見える。

    墓の中で硬直したまま横たわるイエス・キリストのイメージ

    − あの、ホルバインの絵とも、繋がる。

    この夏、友人とドイツのケルンに行った時、

    Kollwitzの事、彼女だけをとりあげた美術館がある事を教えてもらった。

    恥ずかしながら、このアーティストの事を全く知らなかったのだが、

    わたしにとって、ケルン大聖堂にも劣らぬ、忘れがたい深い出会いになった。

    そこでたまたま出会った英国人と言葉をかわすチャンスがあった。

    彼らは、Kollwitzのことを、一昨年前に大英博物館でやっていた「ドイツ展」で、知ったという。

    その展覧会で、Kollwitzの友人が手がけたKollwitzをモデルにした像をみたのがきっかけなのだそうだ。

    実はわたしもその展覧会に行き、像も目にしていたのだが、たいして記憶に残っていなかった。

    ぼんやり覚えているのは、独特な顔をして、宙に浮かんでいる像だ。

    彼らは、この美術館のそばにある教会にいけとすすめる。

    大英博物館で展示された、宙にうくKollwitzの像があるという。

    彼女の作品にとても感銘を受けたので、ぜひ、訪ねる事にした。

    教会の暗いステンドグラスの前に、まさにそのKollwitzの像が宙に浮いていた。

    その下には、第一次世界大戦と第二次世界大戦の年号。

    その作品を、そのセッティングのなかでみて、大英博物館では思いもしなかったような、震えを覚えた。

    教会の前に彼女の生涯の仕事をみせてもらったお陰なのだろう。

    宙に浮くKollwitzは、もはや、死んだ自分の息子だけの母ではない。

    全ての兵士たちの母、

    ドイツ兵だけではなく、全世界の子供たちの母である。

    だけれど、もう、しっかり腕をまいて子供たちを守る必要もない。

    死んだ子供たちの魂とその悲しみを優しく抱きながら、ひとつになって空を飛んでいる。

    怒りと悲しみを超越した穏やかな顔をしていた。

    DSCN5543

    2015/8/24

  • 箱が変われば、中身も違ってみえる::デュッセルドルフ K21 美術館

    美術館建築物のレイアウトが違えば、そこに展示された作品のひとつひとつ一が違って見える。たとえば、NYのグッゲンハイム美術館はユニークな建物外観で知られるが、実は内側も面白い。

    建物中央に螺旋状の巨大なスロープがあり、来館者はまず一番上にのぼり、スロープに沿って降りてくる。作品はスロープの外側の壁に並んでいる。

    だから、壁に掲げられた近代アートは、スロープによってつくられた「ある流れ」の中で鑑賞することになる。

    この夏、ドイツはデュッセルドルフの現代美術館「K21」を訪れた時も、建築の構造が鑑賞に与える影響を考えさせられた。

    同時に、美術史において、作品の表現形態や規模が変化していくならば、それを容れる器の構造も変化する事に気付かされた。

    K21の建築物は、19世紀にできた箱形の建物で、とりたて目新しいものではない。

    DSCN5687

    だが、一歩中にはいれば、控えめだが「新しさ」が加わっている事に気付く。

    オリジナルの建築物は回廊状で、以前はここに中庭があったのだろう。

    それが現代美術館として改築された時、

    中庭部分にガラス張りの天井がとりつけられ、

    かつての地面は石のフロアーになって、美術館のインフォメーションデスクやショップが設置されたのだ。

    肝心の展示室は建物の上階にあって、もとの回廊に沿って並んだ部屋が充てられている。

    ひとつひとつの部屋は、ひとりのアーティストの作品だけで構成されている。

    その多くは、空間全体を作品化した「インスタレーション・アート」だった。

    例えば、「アントニー・ロー」の部屋では、床全部に鏡が敷き詰められ、壁には映像が映され、それが床に反射している。

    中央部には階段がしつらえられていて、そこを歩く事ができる。来館者はそこで不思議な映像の世界を丸ごと体感するのだ。

    DSCN5663

    「ヒッシュホーン」の部屋は、おどろおどろしいマネキンやペットボトルや巨大なチェーンが埋め尽くしていた。

    大災害の後のような空間に身をおくことになる。

    DSCN5668

    もちろん、すべてがインスタレーションではなく、写真や絵画などの平面作品もあった。

    だが、ひとつの部屋が一作家による作品で占められているので、結果的に、ひとりの作品世界に入り込む事になる。

    このような構造の美術館ができたのは、1970年代以降、美術作品の規模が大きくなり、

    インスタレーション作品が増えてきた事と深く関わるに違いない。

    確かに、他のアーティストの作品とじかに見比べたり、関係性を見いだしたりは、難しいかもしれない。

    だが、わたし個人はその動きを好意的に受け止めている。

    あるひとりのアーティストの作品をちゃんと理解しようと思ったら、

    そのような規模で、しかも閉じられた空間の方がわかる場合が多いからだ。

    わたしが訪れた時、K21では、トーマス・サラセノというアーティストの特別展示をやっていた。

    だからといって、特別展示室というのが設置されているわけではない。

    どこかというと、かつて中庭だったところの空にはられた大きなガラス屋根の下である。

    彼はそこに巨大なネットをはって、中にメタルな巨大風船をいくつもおいた。

    なんと、そこは人々が歩き回る事ができるようになっている。

    下から見れば、まるで宙を歩いたり、這ったり、泳いだりしているように見える。

    IMG_2019
    IMG_2023

    それだけみると、なんだサーカスかアミューズメントパークとどこが違うのよと、(高所恐怖症の)私は否定的にみてしまうのだが、先ほどの小さな展示室にも彼の作品の部屋があって、ほほうと思った。

    暗い部屋のあちこちに、キラキラ光る糸が張り巡らされたケースがおいてある。

    ひとつのケースに近づいて、よく見ると糸は蜘蛛の糸だった。

    建物の天井全体を使ったシルバーのネットは、なるほど、そのメタファーだったのだろうか。

    ということは、天井を歩く人々は、蜘蛛の餌食なのだろうか。

    みなさん、楽しそうに餌食になっている。

    なかなかのブラックユーモアである。

    トーマス・サラセノもひょっとしたら、高所恐怖症なのではと、私は、勝手に解釈した。

    K21 公式ホームページ


    2015/8/15

  • 祈りとオートバイ:マン島

    アイルランドとブリテン島のあいだに「マン島」という小さな島がある。最初にマン島の事を知ったのは、マシュー・バーニーというアーティストのビデオ作品からだ。

    そこでの伝統的なオートバイレース、「TTレース」をテーマにしたもので、豊かな自然と猛スピードのオートバイのコントラストが印象的だった。

    その後、独自の議会や独自の「国旗?」をもつ独立精神旺盛な島であることも知った。その不思議な旗は記憶のすみに残った。

    3LEGS

    そんな私が、実は、今年6月、「祈り」を目的とするお客様をお連れすることになり、この島についてさらに学ぶ機会をいただいた。

    マン島=オートバイレースというイメージをおもちのみなさんにも、少しおすそ分けしたく、こうしてパソコン画面に向かっている。

    これもご縁なのだろうか。なんと、そのご訪問が 1年に一度のこの島の大イベント、TTレースの時期に重なった。

    というわけで、ロンドンから乗った飛行機は、世界中からのライダーだらけであった。

    島にはとても豊かな自然がある。

    レースの時以外は、素朴な生活のある静かな島なのだろう。

    DSCN4467
    DSCN4484

    でも、けして寂れているわけではない。

    なぜなら、ここの税金はイギリス本国よりも低く、そのため、いわゆるタックスヘブンになっているからだ。

    お金持ちがたくさんここに住んでいるという。

    あの、車のTV番組「トップギアー」のプレゼンター(不祥事で最近辞めてしまった人)も、住んでいるらしい。

    ・・・さもありなん。

    島を走っていても、豊かな生活が垣間見える。

    かと思えば、蒸気機関車が普通に走っている。観光目的ではなく、庶民の足だ。

    DSCN4518

    そんな島が、なぜ、「祈り」の場になるのか不思議に思われた方もたくさんいるに違いない。

    実は、この島には、いわゆる「ストーンヘンジ」みたいなものが、わんさかある。

    しかも、観光地化されていなくて、自然やひとびと生活のなかに残っている。

    妖精伝説もたくさんある。

    DSCN4502

    さらに、ここには ‘世界最古”の「議会」があるという。

    キリスト教文化がはいってくる前の話だ。

    マン島は、ちょうど、アイルランド、スコットランド、ウェールズを結ぶ中心地に位置する。

    その地理的ロケーションのために、

    それぞれの王や代表者たちが、定期的にこの島の中心地に集まり会議をしたのだそうな。

    今もちゃんとそこに石のサークルがあり。 座長が座る石がおいてある。

    その会議の場は少し小高い丘になっていて、360度みわたせる。

    会議のときには、周囲の山々からラッパの音がしたのだとか。

    ご案内した方たちは、そこで寝そべったり、瞑想したりなさっていた。

    耳を澄ませば、ラッパならぬオートバイの音が聞える。

    企画段階のときに、「祈りを目的にされているのに、たまたまTTレースに重なり、環境的に適切ではないのでは?」と心配したのだが、

    「いいんですよ。ある意味、この島にエネルギーが集まっているのですから」とおっしゃった。

    なるほど。

    本レースは翌日からだったが、みんながルートの下調べや流しにきていた。

    DSCN4473

    これが、本レースのゴール。

    DSCN4542

    地元の女性タクシードライバーさんは、とてもよい人で、

    レースのために島のレストランはどこもいっぱいだろうからと

    オーガニックの店から食材を買い揃えて、海を見下ろす丘の上でピクニックを用意してくれた。

    DSCN4476

    レースをさけて、わたしたちの祈りの目的をみごとにかなえてくれたのは、いうまでもない。

    彼女は、なぜマン島がレースの場になったかという興味深い話も教えてくれた。

    レースがはじまったのは、なんと1907年。これだって充分古い。

    わがままな英国王子が、自分がみたモンテカルロのレースをイギリスにももってきたかったのだそうな。

    でも、イギリスのどこにもそんなレースが自由にできるようなところはない。

    でも、はたと、「レースをやっても、誰も気にしないところがひとつだけある。そもそも、スピード制限もない。」

    場所があることに気がついた。

    それが、「マン島」だったのだ。

    マン島の人にとっては、迷惑な話だろうが、今では、世界に「マン島」ありと、しらしめる重要なイベントなのだろう。

    ここに集まってきたライダーたちは、みんなキラキラした目をしていた。

  • スコットランドのアイデンティティーと小さなミュージアム

    12日間の北スコットランド旅を終え、ロンドンに戻る飛行機の中でこれを書いている。旅行中、様々なところで、青地に白いバッテンのスコットランドの旗を見かけた。

    行政機関の施設とかサッカー場とかではない。一般の家が掲げているのである。スカイ島の宿では、キッチンにあった全てのマグが「YES」キャンペーンの記念のものだった。

    「YES」キャンペーンとは、一昨年に総選挙が行われた時の「スコットランド独立運動」を支持する運動だ。

    あの時は、わずかな差で、UKからの独立にはならなかったけれど、熱い思いはさめておらず、つい1ヶ月ほど前に行われたUKの総選挙の結果に大きく影響する事になった。

    ロンドンの国会でスコットランド国民党(SNP)が大きく議席をのばし、スコットランドでは強いはずの労働党が反対に大敗したのである。

    旅をしがなら、スコットランド独立への夢はけっして消えていない事が実感された。

    ところが、オークニー島を旅していると、スコットランドの旗の他に、見かけない旗をよくみた。

    オレンジ色の地に、黄色と紺の十字の旗である。ノルウェーの国旗に似ている。

    でも、いくらヴァイキングの時代が長かったからといって、ノルウェーの国旗をこんなにみるはずもあるまい。

    あとでわかったのだが、その旗は「オークニー島」の旗なのだ。

    ここは、やはりイングランドでもスコットランドでもない。

    スコットランドに住む人々がすべて、「スコットランド人」というひとつのアイデンティティーをもっているわけではない。

    スコットランド本島でも、西半分はもともとケルト語を話す「スコット人」のエリアであり、

    東半分はその歴史背景から、ヴァイキングの血がはいった「ノース」人のエリアなのだ。

    町の名前の響きだって、東と西では違う。

    オークランド島では、教会に掲げられた家紋やフェリーのロゴ、土地のアーティストがつくるジュエリーのデザインなどに、

    ヴァイギングのイメージをみかけた。

    また、今回旅した厳しい自然をもつ北部は「ハイランド」と呼ばれ、

    よりイングランドに近く比較的穏やかな風土をもつ南部の「ローランド」とは区別される。

    スコットランドでは、言語や人種、地域という大きな括りだけではなく、さらに、「クラン」といわれる家族(氏)や土地との繋がりが強い。

    よく知られる「タータンチェック」は、クランによって色や縞のパターンが異なる(クランタータンは比較的新しい伝統ではあるが)。

    いわば、アイデンティティーの象徴だ。

    ところで、ハイランドをドライブしていた時、石造りの伝統的な家の廃屋をあちこちで見かけた。

    また、「ハイランド・クリアランス」という言葉をよく耳にしたが、それら廃屋はクリアランスの結果だと後で知った。

    「ハイランド・クリアランス」とは、18世紀におこった暗い過去で、

    簡単にいえば、その土地の地主たちが、自分の土地から効率的に利益を得るために、その土地に住む小作人たちを強制的に追い出した出来事である。

    単にそれだけで説明する事もできないようで、その背景には、長年にわたる不作や人口の集中などがあったのだが、半ば強制的な追い出しがあった事実も見逃すわけにはいくまい。

    土地を追い出された人々は、新世界であるカナダやオーストラリア、ニュージーランドに向かって、新しい生活と新しいアイデンティティーを立て直さなくてはならなかった。

    ハイランドも北の端、Strathnaverという村 にその「ハイランド・クリアランス」をテーマにしたミュージアムがある事がわかり、訪ねることにした。

    小さいし、お金もかかってないけれど、とても興味深いミュージアムだった。

    まず、セッティングが面白い。ミュージアムの建物は、実は、この地区のかつての教会だ。

    教会といえば、昔はコミュニティーの精神的な中心だ。

    教会墓地は、今もその建物の周りにあって、たくさんの墓碑が並んでいる。

    墓石に「マッケイ」さんという氏をたくさん見かける。マッケイというクランのひとびとなのだ。

    ミュージアムの中には、かつての土地の人々の暮らしぶりがわかるコーナーのほかに、

    「クリアランス」がおこった背景や、実際に起こった出来事、その影響などを説明したコーナーがあるのだが、面白いことにその展示をつくったのは地元に住む子供たちである。

    現代のアーティストがこの村の歴史や風土に触発されてつくった作品も並んでいる。

    あるいは、ファミリーヒストリーの調査サービスがあったり、アーカイブとしての役割も果たしている。

    ミュージアムのそばにあるカフェで休憩をしていたとき、他のテーブルでの会話から次の事がわかった。

    追い出された人々の子孫たちが、自分たちのルーツを探して、このミュージアムと墓地にやってくるのである。

    また、旅の間、スカンジナビアからの旅行者ともたくさん出会った。彼らにとっても文化的なつながりの深い土地なのだ。

    スコットランドでおこったアイデンティティー運動は、世界中に同時派生的に出ている感情的なムーブメントだと思う。

    この青字に白のバッテン旗に触発されて、オークニー島でもあのオークニーの旗が掲げられるようになったのではないだろうか。

    それは、世界規模でおこっているグローバリゼーションと切っても切り離せない社会現象に相違ない。

    今回の旅行は、ロンドンから見ていては見えないような、土地と風土と歴史と文化と人々の繋がりを、

    身体的に実感できたという意味でも、とても有意義な旅だった。

    実は、仕事の縁があって、いったんロンドンに戻って4日後には再び、スコットランドに戻ってくる。

    その時は、スコットランドの都エジンバラ、そしてローランド地方を拠点に動くことになる。

    そこで訪ねるつもりの大きなミュージアムの展示をみながら、あるいはローランドの風土を感じながら、

    スコットランドのアイデンティティーについて、もう一度考えてみたい。

    2015/6/2