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  • 水車のある博物館:バーゼル

    中秋の曇り空の下、スイスのバーゼルの町のはずれを歩いていた。
    ここには、中世の昔、修道院があったという。
    ライン川を見下ろす小高い場所には、その一部であった塔がぽつんと立っている。
    落ち葉が敷き詰められた坂道を降りていけば、時折、犬と散歩する人々と出くわした。
    川に注ぎ込むように細い運河が流れ、石造りの家々が軒を並べている。
    入り組んだ小道は、かつて人々の生活と運河が結びついていたことを静かに語ってくれた。

    その運河の一角に、大きな水車をみつけた。
    風格のある木製の水車は、今も水しぶきをあげて仕事をしている。
    それが、探していた「紙の博物館」だった。
    中に入ると、博物館というより工房そのもので、水車のギアが音をたてて回り、石臼のなかの布のはぎれを砕いていた。
    はぎれからとりだした繊維が紙の原料になるのである。

    濡れた石床を進むと、子供たちがスタッフといっしょに、製紙のある工程を実践していた。
    博物館には、そのように、製紙・製本に関し、来館者が実際に手を動かせるコーナーがいくつもあった。
    印象的なのは、それらの活動が、子供にもわかりやすいようにと噛み砕いた、
    ややもすると上から目線にもなりかねないアプローチにはなっていないことだ。
    かつての面影をうまく利用しながら、博物館のコレクションである各時代の道具がセットされ、
    製本までのさまざまな仕事を体験しながら、だれでも理解できるようになっている。
    それぞれのコーナーでつくった紙は、お土産にと封筒にいれて渡してくれる。
    子どもたちを、決して子ども扱いしすぎず、好奇心旺盛な学ぶ人として、対応しているのがわかる。
    博物館全体が、建物もモノも人々のかかわりも、実に自然で有機的だと思った。
    そして、そのことは中世ヨーロッパでは、修道士こそが本を生み出す人々だったという歴史、この土地の歴史と繋がっていくのである。

    水車のある博物館をあとに、封筒の中の紙のにおいを嗅ぎながら、町に向かって歩き出した。
    本というものが今後どのように変わっていくのか、
    その存在そのものが、消えうせるのだろうか。
    そうなったとき、この博物館はどのように次の世代に伝えていくのかと、思いをはせつつ。

    Paper Mill Museum Basel


    (03/11/2012)

  • 風景・建物・美術館:バイエラー財団美術館

    (2012年10月半ば、スイス北部のバーゼルと、首都ベルンに行ってきました。2から3回にわたり訪ねたミュージアムをご紹介します)

    フランスとドイツの国境に接するバーゼルの街中からトラムで15分ほどの郊外。
    電車から降り立つと、道路を隔てた生垣の向こうに小道があり、美術館へと続いていた。
    目指すのは、バイエラー財団美術館。
    実は、行く前から、その建物がかのレンゾ・ピアノによるものと聞いていたので、パリのポンピドュー・センターのようなハイテク・ポストモダン建築を思い描いていたのが、みごとに裏切られてしまった。
    植え込みの向こうに見えてきたのは、赤い砂岩の壁とガラスで覆われた、落ち着きのある建物。
    壁面いっぱいのガラス窓からギャラリーの内部が見通せ、その様子は庭の色づいた木々とともに、手前の池に映りこんでいる。
    池はゆるやかな傾斜となって起伏ある土地に溶け込み、目を転じればワイン畑が小高い丘に繋がっている。
    その庭にジェフ・クーンによる花で覆われた巨大な頭部が立っていなければ、現代美術の美術館だとは思わなかったかもしれない。
    チケット売り場で、これがレンゾ・ピアノの建築かと確認したほどだ。
    だが、建築や周囲の環境がもつこの穏やかさは、美術館の基本コンセプトに呼応していることを、あとで理解するのである。

    さらに建物に向かえば、美術館建築によくあるような美の殿堂に上がっていくステップがない。
    小道がそのままギャラリーの床に繋がり、圧倒されることなく、空間に吸い込まれていく。
    中に入れば、天井高く、全体的に明るい。
    池に面したギャラリーでは大窓から、内部に位置するギャラリーでは天井全体からやわらかな自然光が差し込んでくる。
    通気孔から明るい色の木材で覆われた床に至るまで、すべてが控えめだ。

    展示構成は歴史順にはなっていない。
    ひとつの部屋は2-3人の美術家たちの作品が展示されているが、その組み合わせには、審美的な観点と作品の背景に対する配慮の融合がみられる。
    ピカソとセザンヌの女性の頭部の作品を描いたものが並列しているかと思えば、アンリ・ルソーのジャングルを描いた大作の隣に大きなオセアニアの仮面が置かれてい たりする。
    後者についてつけ加えれば、「プリミティブ」というモダンの見方をいまだにやっているのかと批判的に捉えられそうだが、それぞれの作品間に主従の関係など見当たらず、同じリスペクトをもって展示されているのがわかる。
    別の部屋では、壁面すべてにマーク・ロスコの大作が架けられ、床にはジャコメッティの大きな人体像が置かれている。しかも、それらが整然と配置されているのではなく、自然な主体的位置を与えられているのだ。
    そのためか、ギャラリー内で歩いたり立ち止まったりする来館者たちさえもがその空間のなかに溶け合っているように見えた。
    はっとさせられたのは、フランシス・ベーコンのゆがんだ人体を描いた油絵と、ロダンの屈折した人体像、ルチオ・フォンタナの呼吸を思わせるような彫刻作品が並んでいる部屋だった。美術史的には関連の薄い3人の作品が、テーマや形態という点で不思議に共鳴しあっている。

    ここにあるのは、ロンドンのテートモダンのようなテーマ展示でもない。テートのように、なぜこの組み合わせなのかと悩まされることもない。 このギャラリーの展示はどこをとっても自然で気負いがない。
    そこでの体験は、どこか暖かで親密なものだった。
    それは、同じ空間に展示された作品同士が、作品と建物が、建物と周囲の風景が実に心地よく響きあっていることからもくるのだろう。月並みな言い方だが、そこには、レンゾ・ピアノや創設者バイラー、キューレターたちのパーソナルな想いが感じられたのである。

    自分のコレクションをパブリックに公開しようと思った時、バイエラーはまず手っ取り早く市に寄付することを考えたのだそうだ。(バーゼル市美術館は市規模では欧州最大と聞く)
    だが、ロケーション選びなどで難航し、最終的に財団を作って、私設の美術館をつくることにした。
    建築はコンペにせず、レンゾ・ピアノと決まっていた。その彼ともなんども美術館づくりの話合いをしたのだとか。
    もし最初の考えどおり、公の美術館にはいったとしたら、このような親密さを感じさせる美術館体験にはならなかったのではないだろうか。
    好きな美術館がまたひとつ増えた。

    beyeler foundation

    (15/10/2012)

  • クリムト生誕150周年のウィーン

    2012年初夏、ウィーンの街は、クリムト生誕150周年記念で賑わっていました。街には、いたるところにクリムトのイメージが溢れ、美術館は特別展を企画して、彼の業績を称えています。

    興味深かったののは、各美術館が手法を凝らして、違う角度からクリムトの作品や、アーティスト自身、そしてウィーンや世界に残したレガシーに光をあてていたこと。当たり前といえば、そのとおりですが、はっきりとテーマを打ち出し、美術館同士がコラボレートしていたのは、さすが歴史ある芸術の都と感服しました。

    例えば、もっとも人気のある美術館「ウィーン美術史美術館」。ここには、玄関ホールの天井高いところに、クリムトが描いた壁画があります。今年は、そこに臨時の足場が組まれ、間近で鑑賞できるようになっていました。それは、古代エジプトから現代までのアートの流れを象徴的に語る壁画。クリムトの手によって、ファラオの時代の高貴な女性が、独特の甘美な表情とともに20世紀に甦ったかのようです。

    壁画といえば、セセッション(分離派協会)の有名な「ベートーヴェン・フレーズ」のことが思い出されるでしょう。
    果たして、ここにも、臨時の足場が組まれていました。この壁画(やはり天井近くの壁に描かれている)は、「人類の幸福への憧れ」がテーマになのですが、シンプルに響くこのテーマに、人生の微妙な色合いが織り込まれているのが、手に取るようにわかります。

    有名な「接吻」は、ヴェルヴェデーレ宮殿にあり、彼のほかの作品といっしょに展示されていました。他の展示室はそれほどでもないのに、この部屋だけは人がいっぱいで、館のスタッフが人の流れをコントロールしていたほど。わたしは天邪鬼なので、あまりに有名になりすぎると、逆に関心が薄らいでしまいがちなのですが、間近で見ると、彼独特の女性への賛美に心動かされます。その女性を前に、どうにもコントロールのできない男としての自分も赤裸々に描いています。

    レオポルド美術館は、彼の作品をその人生と照らし合わせてみせていました。パートナーであったエミリエ・フローゲに宛てた何百通もの手紙や、写真、彼が使った家具などといっしょに彼の作品が並べて展示され、アーティスト、クリムト像をさまざまな角度から理解し、かつ、生涯の時々に生み出された作品の背景、そしてウィーンに与えた影響を理解できるように工夫されています。展示のしかたもとても斬新で、目をみはるものがありました。

    でも、わたしが最も興味深かったのは、アルヴェルティナ美術館の展示でした。クリムトの素描だけを集めて、ラフに時代順に追うシンプルな展示です。クリムトというと、金色をふんだんに使った色鮮やかな装飾的絵画のほうが思い出されますが・・・、思えば、これだけの彼の素描をまとめてみるのははじめてでした。その一点一点が、実に生き生きとしていて、彼の表現に対する精神が如実に表れている。まさに、色づけされて飾られた絵画の奥底に、人生や女性への思いが流れていることを、筆の動きだけから感じることができるのです。

    正直いうと、はじめアルヴェルティナはあまり期待をしておらず、ウィーンの最後の日にとっておいたのですが、先にこれを見ておけば、他の絵画や壁画への鑑賞が違ったかもしれません。

    このように、街をあげて、ひとりの芸術家を違う角度から見せること、そこには、各美術館のテリトリーを越えるみごとな連携プレーがありました。そして、そのように表象することが、また、それを受け止めることが、ウィーンのアイデンティティを築く助けになっているに違いないと思うのです。

    2012.6.11

  • 鏡と椅子:ふたつのフロイド・ミュージアム

    精神分析学の権威フロイドの名前を冠したミュージアムが、世界にふたつあります。ひとつは、ロンドンの北部住宅街にある一軒家、もうひとつはウィーンのベルガッセ通りに面したアパルトメント。どちらも彼とその家族が住んだ家です。

    ウィーンは、1891年から45年以上の長きにわたって拠点とした場所。精神分析医としての名声を高めていったのも、家族を育てたのも、この家でした。しかし、やがてナチスが台頭すると、周知のように、家族ともどもイギリスに亡命したのです。

    ロンドンのミュージアムは我が家にも近く、興味深い企画展をよくうつので、何度か足を運びました。なかでも彼の書斎はとても面白い。大きな仕事机も、書棚も、暖炉の回りも、好奇心をそそられるオブジェに溢れ、こういうものを眺めながら、人間の深層世界を探究したのだろうかと思い描いてみます。


    患者たちがリラックスして診断を受けた大きな安楽椅子もあります。色鮮やかなイランカーペットがかけられたその椅子は、実にすわり心地がよいのだそうで、ウィーンからわざわざ運んできたのだとか。

    少し離れて、特別注文で作ったフロイド専用の不思議な形をした椅子が置いてある。彼が仕事をしていた空間がそのままの状態で残されているのです。

    ここを先に見ていたからでしょうか、
    今回のウィーンの旅で、フロイドの家を訪問した時、「亡命」の爪あとを見たように思います。なぜなら、当たり前のことですが、ウィーンの方はまさにも抜けの殻で、彼が仕事をした、生活をした、その匂いがほとんど感じられない。当時の面影を残すのは、特徴ある壁紙が張りめぐらされた玄関ホールだけでした。


    評判の医者として多くの患者を受け入れた仕事場には、壁面のガラスケースに、当時の室内を捉えた写真や手紙や身の回り品が展示されている。家族の住空間であったところは、ショップやミュージアムのオフィスになっています。

    ふたつのミュージアムを表面的に比較するならば、ロンドンの方がだんぜん血の通うミュージアムでしょう。見学客にとっても、彼のパーソナルな側面をより深く理解できるし、なにより見甲斐があります。

    だけれど、亡命したのはフロイドが83歳の時であり、その翌年には末期がんで亡くなっていること―つまり、ロンドンには1年しか生活しなかったこと、そして、弟子たちが亡命を勧めていたにもかかわらず、本人は最後の最後まで反対していたことを考えれば、フロイドにとって、本当に血が通った場所がウィーンだったのは、疑いようもありません。


    そんなことを考えながら、もぬけの殻のウィーンの家を見ていていると、そのあまりの空虚さが痛々しい。生活を根こそぎ奪われてしまうことの重さを、あるいは、ひとと空間の繋がりの深さに思いが至るのです。

    ところで、そのエンプティなミュージアムに、気がかりなものをふたつ見つけました。ひとつは、ロンドンの書斎にもおいてある、あの「フロイトの椅子」が、なんでもないコーナーにぽつんと置かれてあったこと。


    なぜ、この椅子はここにあるのだろう。フロイドはわざわざ同じものをロンドンでも注文したのだろうか。それなら、なぜ、この椅子だけがここに残されたのか。いや、博物館側が作ったコピーかもしれない―フロイトの分身として、この椅子が選ばれたとしても不思議ではない・・・。(ノートが置いてあるのにドイツ語が読めない)

    もうひとつは、外を望む書斎の窓の、そのど真ん中にかけてあった小さな飾り鏡。この鏡は、フロイドがここに住んでいた頃から、この不可解な位置にあったのだそうです。その鏡だけが、ひょっとしたら、フロイドがもっとも盛んだった頃の、仕事や家族の様子を知る唯一の目撃者なのではないかと、想像を膨らませます。今、ここに映っているのは、ガラスケースの展示資料や観光客だけだとしても。

    2012.5.19

  • スロヴァキアの小さな陶磁器ミュージアム

    スロヴァキアの首都ブラティスラヴァの小さなミュージアムのお話をしたいと思います。

    ブラティスラヴァ郊外のワインの町、モドラにある陶磁器ミュージアムです。町は色鮮やかなマジョリカ陶器でも有名で、たくさんの工房があります。町のInfoで入手した地図に、陶磁器のミュージアムが紹介されていたので、足を伸ばしてみることにしました。

    小雨降る中、地図を頼りに歩いていくと、まるで要塞のようながっちりとした茶色の建物が見えてきました。どうやらあれが目指すミュージアムのようですが、看板にはホテルとでています。
    首をかしげながら近づくと、たしかにミュージアムでもあるようです。

    ははぁ~、ホテルが経営する商売目的のミュージアムか、あんまり面白くないかもしれないな、というのが最初の推測でした。
    レセプションで、ミュージアムを見たいのだと告げると、こちらですと部屋の電気をつけてくれました。なんの変哲もない扉を開けると、時間が止まったかのような工房の中。
    いるのはわたしたちだけ、最初の推測は、どうやら間違っていたようです。

    部屋の真ん中には、かつては忙しく音を立てていたであろう砕石機が埃をかぶっています。部屋を見渡すと、水を混ぜるための大きなシンク、足で蹴るタイプの大きなロクロ、50年代式の赤いバイクが目にはいってくる。ふと窓際に目をやれば、陶磁器作品といっしょにレーニンの頭像が射し始めた光のなかにあります。

    ミュージアムらしきものがあるとすれば、壁際のガラスケースぐらい。棚には初期のあまり色づけがなされていないシンプルな陶磁器や、当時の写真が無造作に置かれているだけ。

    建物のさらに奥に入っていくと、炉釜や作業場がありました。どの一角をとっても、まるで、つい昨日まで作業をしていたのに、急に時間が止まったかのような様子です。写真から伝わるとよいのですが。

    簡易階段があったので、わくわくしながら2階へあがっていきました。そこには天井まで届くような棚が並んでおり、出来上がった陶磁器や型が置かれています。工房だったときも、ミュージアムとしての今も、陳列棚として機能しているのです。

    ここがかつて工房であったことは、もはや疑いもありません。
    ならば、なぜ、ホテルになったんだろう。いや、ホテルになったのはよしとして、なぜ、ホテルの経営者がここを残したのかが、むしろ気になるのです。これだけのスペースならば、客室がいくつも入るだろうに・・・。

    階段をさらに上がっていくと、
    やはり有名な陶芸家を輩出した歴史ある工房であったことがわかりました。工房は町の郊外に移転し、ホテルが建物を買い取ったとのこと。要塞のような建築も伝統的な工房の特徴なのです。
    ホテルの名前は、ある陶芸家の名前にちなんだもの。
    それらのことから、ホテルの経営者の伝統に対する敬意が感じられます。工房をつぶさないで、ミュージアムとして残したのも、その思いと繋がるのかもしれません。

    しかし、ミュージアムにするなら、もう少し手をいれて、もっと訪問客が入るようにしたり、ついでに陶磁器のショップなど置くのが、常道だと思うのですが。
    いや、わたしにとっては、手前勝手ながら、このような空間だからこそ、感慨深いものがあったし、逆にいえば、heritageのあり方を考えるきっかけにもなりました。


    この中途半端に忘れられた時間の隙間は、いったいホテルの経営者の考えに沿ったものなのか、単に、お金が回らないだけなのか、そこには、社会主義から資本主義への社会的移行の影響があるのか・・・。なにより、次に尋ねるときには、このまま残っているのだろうか・・・。
    そんなことを思いながら、再びばらつき始めた雨の中、傘をさしてワイナリーに向かいました。

    記事:2012.5.12

  • くにの美術館とわたしの美術館:フィリップス・コレクション

    フィリップス・コレクション

    昨年末からこのブログに綴ってきたワシントンDCとボストンのミュージアム巡りの最後に、フィリップス・コレクションのことを書いておこうと思います。

    この美術館はルノワールの「舟遊びの昼食」をはじめ、世界的な名画が集まっていることで有名ですが、ここがアメリカで最初の現代美術館だったことはあまり知られていないし、
    歴史的・社会的な背景についてもまだまだ議論の余地があるようです。

    その誕生は、ダンカン・フィリップスという美術蒐集家が自分の邸宅を美術館として一般公開した1921年に遡ります。
    当時、アメリカ合州国が豊かになるにつれて、同じようなコレクターたちが自分のコレクションを公開する動きが膨れ上がっていきます。

    やがて、その多くは、経済的、政治的折衝の中で、国の機関すなわちスミソニアン博物館群の中に組み込まれていく。
    先日紹介したヒッシュホーン美術館も東洋美術を扱うフリーア・ギャラリーも、個人のコレクションから始まり、後に国に寄贈され、国立スミソニアン・ミュージアムのひとつになった美術館です。

    では、なぜフリップス・ギャラリーは私立ミュージアムとして残ったのか。
    実際にギャラリーの壁に並べられた展示作品を見ていくうちに、それが美術館の一般的な構成方法とは違う視点から作られたものであることに気付き、また、それが開館以来のコンセプトであったことを知ると、ここに謎解きの鍵があるのではと推測が浮かんできます。

    近代ミュージアムの展示法における王道といえば、時代や流派に沿った歴史的構成でした。
    1980年代以降、その従来の構成を見直し、さまざまな実験を始めたことは、このブログでも再三ご紹介してきたとおりです。
    それは時に共通するテーマであったり、共通する手法だったり・・・と。私は、勝手に「ポストモダン展示」と呼んでいますが・・・。

    ところが、フィリップス・コレクションは、開館以来一環して歴史構成を拒絶してきました。では、何を基軸にしてきたのか。
    一言で言えば、ギャラリー全体の審美的な響き合いです。

    例えば、私が2011年12月に訪れたときは、
    ジョセフ・マリオニというコンテンポラリー・アーティストのミニマニズムの作品が、
    セザンヌやシャルダンなどの作品とともに並べられていました。
    時代も流派もほとんど接点がありません。それらしきテーマも見当たらない。

    ギャラリーの壁には「Eye to Eye」とあります。
    配慮されているのは複数の作品が壁面に並べられた状態を見たときの、
    互いの組み合わせのあるいは全体からくるリズムや調和、目への心地よさなのです。

    それは建物の建築とも同調しています。まるで、自宅の空間を飾るような細やかな配慮です。ソファーに座りながら、しばらく眺めてみたくなる、そんな空間です。

    そういう展示からは、確かに、歴史的知識を得たり、美術の影響や発展を学ぶことは難しい。反対に、国家のミュージアムは歴史を重視し、国民を教育することに主眼をおいてきました。

    歴史的構成に意味がないわけではありません。
    ましてや、ミュージアムの教育的機能を軽視しているわけでもない。
    だけど、その方向性の中で、作品に接する自然な喜びが、損なわれてしまうリスクに思いをめぐらしてみるのです。
    自分の家庭空間の中で、歴史的な観点から作品を飾るなんてしないですもんね。
    大金持ちでないかぎり、構成するほど数がないか。
    いや、言いたかったのは、実は、そこに、フィリップスが自分の美術館を国に寄贈しなかった重要な要因があるのではないかということです。

    フィリップス・コレクションはその運営維持のために今でこそ入場料をとりますが、
    開館以来、長い間、無料で開放してきました。
    フィリップス自身の言葉によれば、彼が支援したのは、学者や流行を追う人々に左右されることなく、「美を追求する孤独なアーティスト、政治的影響力や職業団体に支援されていないアーティスト」でした。
    フィリップスは優れた鑑識眼の持ち主だったようで、集められた作品の中には、後になって社会的評価が高まったものが多い。

    そして、それら名画が美的な配慮によって構成されたこのギャラリーは
    「人々に楽しみを与え、生活を高め、本当の芸術家と同じように鑑賞できるよう手助けをするところ」
    であるべきだと考えられたのです。
    これらの言葉から、彼は、ミュージアムにパワーがあることも承知していたのではないか、
    だから、そこに政治的な介入が入ることにも抗ったのではないかと想像してみたりします。

    真相はどうであれ、振り返ってみれば、私が個人的に好きなギャラリーには、
    小さなプライベートの美術館が少なくありません。
    ワシントンDCに行かれたら、スミソニアン博物館群を見て回るだけではなく、
    そういう「わたくしのミュージアム」を訪ねてみられることをお勧めします。なんだかほっとしますよ。

    あ、備忘録のつもりで付け加えます。
    かつて、このギャラリーには、マーク・ロスコが設計した庭があったそうです。
    今は増築のために壊されてしまったのだとか。いったいどんな庭だったんだろう。

    2012.2.27

  • インタープリテーション・ガイド?:ヒッシュホーン・ミュージアム

    インタープリテーション・ガイド?:ヒッシュホーン・ミュージアム

    また「アンディー・ウォーホール」かァ、
    向かいのナショナル・ギャラリーでウォーホールの別の特別展を見たばっかしだし。
    ウォーホールなら、別に実物みたところでどうってことないしなぁ。

    てな感じで、DCのヒッシュホーン・ミュージアムでウォーホールの特別展をやってると知った時、気乗りがしませんでした。
    でも、時間もあるし、せっかくだから行ってみっか。

    なんと無礼な・・・いやミュージアムのお客さんはコンナもんです。

    展示室の入り口には、《Shadows》とあります。
    なんでもない壁を撮影して、その複製を何枚もつくり、
    違う色を施した作品群を並べるという、典型的な作品です。
    ギャラリーの白い壁に同じ大きさの「Shadow」の複製がズラーと横一列につながっていました。円筒形の建物で内壁も曲面になっているのですが、
    そのせいか、展示全体が見渡せない反面、どこまでも続いていく感じがするのです。

    「ここ写真OKかなあ」
    そう呟きながら足を進めると、
    展示壁の反対側に黒いタートルセーターのお兄さんが立っているのが目に入りました。
    警備の服装ではない。でも館のスタッフみたい。
    あのお兄さんに聞いてみよう!

    と思いきや、彼のほうからこちらに近づいてくるではありませんか。
    すてきなお兄さんが近づいてくるなんて、なんてすてきなギャラリーだろ! しかもですぞ、なんと彼のほうから声をかけてきた!

    「どうですか?この展覧会、どう思いますか?」
    へ?
    来館者調査か?…そんな感じもしないけど。(実は私、調査をしたことがあるので、直感でわかるのです)
    お兄さんはニコニコしています。
    その首からは青いクエッションマークとアンドリューという彼の名前がぶら下がっています。興味津々。私は、アンドリューにもっと大きなクエッション・マークをつけました。

    でも、「髪型かっこいいね」なんて言えないから・・・。
    「とってもウォーホール的で面白いですね」トカナントカ、口は勝手にしゃべってる。
    頭のなかはお兄さんへの??????が膨らんでいく。

    「この絵、ずーっと続いてるの?」
    「そうなんです。102枚」
    「わあ、スッゴい。しかもこのギャラリーのスペースにあってるウ」
    「でしょ?歴史的に初めてなんですよ、全部展示するの」・・・

    そろそろ、わたしの番に切り替えてもいいかシラン?
    「あのお、質問してもいいですか?」

    「もちろん!なんでも!」
    「あなたのことなんですけどオ」
    「・・・?」

    彼はとても気さくなひとで、わたしの質問にもいやな顔しないで答えてくれました。
    アンドリューの肩書きはインタープリテーション・ガイドというのだそうです。
    インタープリテーションとは日本語で解釈と訳されます。
    彼らは、作品や作家について基礎的な勉強をしてはいますが、
    一方的に解説をするツアー・ガイドではありません。
    作品の解釈は十人十色。
    その見方を基本的に尊重しつつ、会話をすることで、お客さんの鑑賞をさらに豊かにするお手伝いをするんだそうです。
    一人の世界に籠もって楽しんでいる人にとっては、うざったいかもしれません
    。でも、わたしのように、ただぞんざいに(?)ボーと眺めている鑑賞者は少なくないはず。彼らに声かけられることで、確かに頭のなかが刺激される。

    そのことは、実際私自身が来館者調査をしたときにも発見したことでした。
    調査の目的は、もちろん、どんな人々が美術館にやってきて、
    彼らはどんな体験をするのかを客観的に調べることです。
    展示の前で心に浮かんだことを何でも口にしてもらって、それを記録する質的調査もしました。

    調査が終わった後、協力していただいたことに感謝したら、
    彼らに感謝され返されたことが、実は少なからずあるのです。
    一人で見てたらこんなにいろいろ思わなかったかもしれない。
    あなたという聞き手がいたから鑑賞が深まったと。

    そんなふうに、だれかそばに人がいることで、(たとえその人が聞くだけだったとしても)
    なんらかのコミュニケーションが生まれ、それが作品とのコミュニケーションをより活発にするのでは。
    このインタープリテーション・ガイドは教育部門の下にあり、数年前から始まったのだそうです。イギリスでも今回のボストンとDCの旅でも、とにかく私の知る限り、そういう試みを見たことがありません。

    とにかくも、この試みは、
    美術館はみんなが静かに鑑賞する聖域か、活発な会話が生まれるフォーラムか
    ―というミュージアム学ではよく知られた疑問にも結びつくのかもしれませんね。
    ウォーホールさん、どう思います?

    記事:2022.1.22

    追記:実はここでみたウォーホールの《Shadows》が、たいへん意味深い彼の渾身のプロジェクトだったということを、10年後にNYを訪れた時に知るのです。

  • ランドスケープ・デザインとパワー:The Mall, Washington DC

    「歴史と国の機関がひとところにこれだけ集中した都市は、おそらく他にはないだろうな」―ワシントンDCの地図を机のうえにひろげて、心の中でそう呟きました。平面的な地図と記憶のなかのイメージをダブらせながら、旅を振り返えっています。

    中央に横たわるのは緑の帯。その東端には白いドームの国会議事堂、反対側にはギリシア神殿のようなリンカーン記念碑、その真ん中に聳えるオベリスクがワシントン記念碑、そしてその上方にはホワイト・ハウス。それらをランドマークとして、The Mallと呼ばれる緑地が広がる。それを囲むように黄色く塗られた建物とグレイの建物が立ち並んでいます。

    グレイは労働省・法務省・財務省・教育省といった政府機関の数々。黄色は国立スミソニアン博物館群をはじめとするミュージアムです。Mallの西側には、第二次大戦記念碑、ベトナム戦争記念碑、ルーズベルト大統領記念碑、マーチン・ルーサー・キングの記念碑などが転々としています。

    一望すれば、国家としての記憶、アイデンティティーを表象するミュージアムおよびメモリアルと、現在まさに稼働中の国家のエンジンが肩を並べていることが一目瞭然。過去や現在、動や静と、一見違う次元に属す場が並列しているように思えますが、そこを歩きまわり、今また全体を眺めてみると、ここには同じ力が充満しているのではないかと思えてなりません。国家というパワーです。

    地図を裏返すと、この首都の心臓部の簡単な歴史が紹介されています。この都市デザインが計画されたのは1790年代。1776年独立宣言のすぐ後です。最初は、国会議事堂とホワイト・ハウスとモールという三角形のエリアから始まりました。内外に一国家であることを示す標だったのでしょう。

    1800年代半ばには初代大統領ワシントンの記念碑やスミソニアン博物館が建設され、1900年代前半には、南北戦争後に再びアメリカを統一させたリンカーン大統領の記念碑が創られ、Mall が完成する。1900年代後半はミュージアム建築のラッシュです。当然、政治行政機関の建物も早い段階から議事堂やホワイトハウスの近くに建てられていきました。つまり、都市計画の最初から、政府動力と歴史を創る作業が同じ場所で平行して行われたわけです。

    このデザインには、建国そして国家統合という精神が表れているのでしょう。アメリカは歴史の浅い国だといわれます(この言い方も語弊を招くのですが)。ヨーロッパからの独立、異なるルーツをもつ人々の集合、南北戦争、アメリカ・インディアンや黒人との共生、移民問題。さまざまな課題に立ち向かい、国家を統合させるには、政治を動かすことと同様に共有される歴史を創ること、国の技術や文化の特異性を示すことが、非常に重要だと考えられてきたし、今もその考えが継続している。

    また、スミソニアン・インスティチュートの発展をおってみれば、アメリカ合州国がどのように国を表象しようとしてきたのか、その変遷が垣間見えてくる。揺籃期である1800年代後半のミュージアムは、伝統文化の保存というよりは、むしろヨーロッパに追いつこうと産業技術科学の発展に寄与するよう機能しました。1872年にはナショナル・ギャラリーが建てられますが、自国の美術を表象するより、ヨーロッパと並ぶような優れたコレクション(もちろんヨーロッパの)を収集し、その財力や文化力を示そうというものでした。

    しかし、第二次大戦後、表象のありようが変わってきます。アメリカの歴史や文化を表象しようとし始めたのです。たとえば、歴史技術博物館が歴史博物館になったこと、国立のアメリカ美術館やポートレイト・ギャラリーが設立されたことをみればよいでしょう。

    80年代以降にはまた新たな変化。アフリカ美術館が1979年にスミソニアンに組み入れられたことにはじまり、国立アメリカン・インディアン・ミュージアムの設立(2004年)に代表されるように、かつて蔑視されてきたマイノリティー集団の文化を、公平に表象しようと努力するようになったことです。このように、表象の対象やその中身、方法には、時代とともに変化があります。でも、その底辺に一貫してあるのは国家統合という精神だといえます。

    今回は、このモール周辺を中心に観て回りました。もちろん、それだけの価値があることは疑いありません。ただ、1日中ミュージアムの建物のなかで過ごし、そのなかで観てきた「アメリカ」は、やはり、国家が表象したいアメリカであることに違いはない。政治的な操作や歪曲もあるのでしょう。多様なアメリカ社会の日常や関心とは、乖離したり矛盾したことも多々あるに違いないと思うのです。

    そのような、たかだか表層的なアメリカでしかないことを承知のうえで、ミュージアムを通すからこそ見えてくる問題点、個別の展示や表象の仕方について、他者や国民との関係について考えたことを改めて書いてみたいと思います。

    記事:2011.12.16

    2026年現在。15年前に書いたこの記事を読んで、今、まさにこのスミソニアン博物館がトランプ大統領の影響下で逆転している:つまり「負」の過去を隠蔽し、多様性を抑えようとしている、動きをとても危惧しています。

  • 多様性を語ることVS来館者の体験:国立アメリカン・インディアン博物館

    アメリカ国会議事堂の目と鼻の先に、国立アメリカン・インディアン博物館があります。

    スミソニアン・インスティチュート(ミュージアム施設群)のなかで最も新しい博物館(2004年設立)なのですが、コレクションにはスミソニアン博物館史の初期(19世紀後半)、西部開発の流れのなかで、インディアンの文化・歴史や生活用品が「近代的な」視点から精力的に収集されたモノがたくさんあります。

    それらは、「人類学」とか「自然史学」の範疇にいれられる「標本資料」にすぎませんでした。当時の西洋植民者はネイティヴの文化を見下していたのです。では21世紀の博物館はどのように彼らを表象するようになったのでしょうか。

    常設展示は、「Our Universe」・「Our People」・「Our Lives」というギャラリーで構成されています。ひとつの展示室内は、外壁と同じ流線的な壁で仕切られ、曲がりくねった通路の隙間には蛸壺のような空間がある。全体が有機的な感じです。蛸壺エリアではある部族のことが、中央では白人との出会いなど全体に共通するテーマが語られています。インディアンを統括的に描くのではなく、その多様性をさまざまな視点から語ろうとしているのです。

    もうひとつの特徴は、古い顔と現在の顔を並べて紹介していること。たとえば、ある部族の伝統的な狩猟道具と、子孫たちが古い知恵にテクノロジーを加えている様子を並列して語る。昨今の民族系ミュージアムでは人々の今の様子を導入することが増えてきましたが、この博物館展示では、「現在」が展示の脇役ではなく、むしろ中心的な役割を果たしているのです。興味深かったのは展示づくりの最初からネイティブの人々が参画していること。展示ができた後もさまざまなアウトリーチが継続されています。

    当館の目的は、ネイティヴの人たちとの「パートナーシップ」を通して、インディアンの文化、その「過去と現在と未来」について理解を進めることだと謳われています。常設展示室にOurという言葉が使われているのも頷けます。このように表象される者が主体的に表象の過程のなかに参加すること、また、過去だけではなく、現在の社会問題なども含め、将来への展望について語ることは、1980年代以降の欧米の博物館の方向性なのです。それは、自文化中心的なグランド・ナラティヴを見直すポスト・モダンの潮流がミュージアムにも流れているといえましょう。

    博物館が従来の表象を自省的し、より民主的な開かれたアプローチに挑戦していることは評価されれべきですが、ここにはジレンマがあることも認めなければなりません。DCで出会った人々は、アメリカン・インディアン博物館をあまり評価してはいなかった。

    「沢山ありすぎてフォローできないのよね」「散漫な印象しか残らないんだ」「ホロコースト・ミュージアムはひとつの物語がはっきりしていて、深く感動するけどね」

    彼らの批判の要因が展示構成にあることは明らかです。ホロコースト・ミュージアムとは同じMall地区にあり、とても人気があるのですが、ひとつの流れをもつストーリー展示を採用しています。当館を見学した折、他の訪問客を遠目に観察していたのですが、ほとんどが展示を鑑賞することというより、あてどなく歩き回っている様子でした。

    この利用者の批判は、インディアン博物館のミッションと真っ向からクラッシュしています。多様性を示すため、現在の人々の声を生かすために、展示の構造や内容はどうしても複雑になってしまう。逆にいえば、これまでの反省にたったからこそ物語構成を採らなかったわけですから。

    ポスト・モダン的なアプローチは先進的なミュージアムによく見られるようになった反面、その手法が来館者の体験にマイナスに作用してしまうという共通の課題が生じるようになったのです。これを解決するのは至難です。しかし大事なことは、だからといって近代的な展示手法に戻ることではないし、反対にジレンマに目を塞ぐことでもない、個々のミュージアムが内容や来館者の反応を調査したうえで、それぞれに策を講じていくしかないのかもしれません。

  • もうひとつのドガ:ボストン美術館

    2011.11.29-12.9まで、大西洋を渡ってボストンとワシントンDCを回ってきました。何回かにわたって、そこで訪れたミュージアムのことを記しておきます。

    まずは、ボストン美術館でみた‘もうひとつの’ドガ展―『ドガとヌード』のこと。ボストン美術館での展示は完全に「時間軸」展示になっていたという点で、旅の一週間前に訪れたロンドンのロイヤル・アカデミーでの展示『ドガとバレエ』よりも、オーソドックスなものでした。

    それでも、若いドガが美術館に通い古典作品を模写した時代のあとで、こんどは売春宿に通って、娼婦たちのヌードや水浴の様子をささっと描きあげた何枚ものスケッチの展示があり(これまであまり公開されなかった)、次に大きなヌードの油彩画へとつながっていく経緯をたどることができ、画家への理解が深まったように思います。

    対象も描き方も違うけれど、ドガにとっては生涯をかけて人体のフォルムを探究する同じ旅の途上だったことを、この展示は示していました。そして、そのことは、もちろん、ロンドンの美術館が提示してみせた踊り子たちの「動き」を追うドガのまなざしとも重なる。執拗さがアーティストを創るのだと、改めて感じ入りました。

     ただ、この展覧会でわたしが消化不良に感じたのは、なにがドガのアプローチを変換させたか(古典の模写から娼婦のスケッチへ)が不透明なままだったこと。それとも、美術史的にはまだまだ解読の余地があることなのか。だとしても、ひとつのテーマを執念に追い続けたこの芸術家にとって、そのことの意味は小さくははいはずなのだけど。

    また、フォルムがテーマとはいえ、娼婦の背中に浮かぶ憂いについてもほとんど触れていなかった。たしかに、人体に距離をおいてアプローチしようとしたドガではありますが(だからこそ、覗き見的だと、逆に非難されたのでしょうが)、モデルの顔を描いたほかの作品をみれば、あるいは、顔の表情がなくても使われた色合いやタッチから、この画家が科学的な視線からだけ人物を描こうとしたのではないことがわかるのです。このあたりのことを考えさせられる要素が展示にあったら、もっと面白かっただろうにと思った次第です。

    ともあれ、二つの美術館、別のテーマで、立て続けにドガをみたおかげで、この芸術家にますます興味をもったのは言うまでもありません。もちろん、展覧会の描き方によってみえてくるドガ像が違うことも理解できました。展覧会というメディアはひとりの芸術家にいろいろな角度から光をあてることができます。違う色合いの光の重なるなか、観る者の記憶のなかで芸術家の像が結ばれ、彼・彼女が生きた時代や社会の像が結ばれるのでしょう。そしてその像も時代とともに変化するのだと思います。

    Museum of Fine Arts, Boston  “Degas and the Nude”

    記事:2011.12.14