カテゴリー: エキシビジョン・レビュー

  • 美術館に飾られるBANKSY、アムステルダム

    2016年末、アムステルダムの美術館でバンクシーをやっていると聞いて、

    ロンドンから弾丸旅行をした。

    バンクシーのファンであるだけではなく、ストリートアーティストの作品を美術館という場でどうみせるのか、どんな社会的インパクトがあるのか、自分の目で確かめたかったからだ。

    最初は懐疑的だった。

    ストリートに生きるはずのアート作品が、「美術館」という限られた空間ではうまく生かせないんじゃないの?とか、

    警察や国家などの権威に対して、反骨精神をもって向かうのがバンクシーらストリートアーティストの姿勢のはずで、

    彼らにとって「美術館」もある意味権威に違いないのに・・・、

    結局、そっちにとりこまれちゃったわけ?

    ・・・・なんて、かなり疑い深い気持ちが正直あった。

    ところがところが、さすがのバンクシー。

    展覧会をみてきて、この人はやっぱりホンモノだと思ったね。

    アムステルダムでは、ふたつのミュージアムでやっていた。

    Beurs van Berlage という中央駅前にある立派な文化施設と Moco Galleryというゴッホ美術館の隣にある現代アートの美術館。

    特にMoco Gallery が面白かった。

    ここは、20世紀はじめに建てられたモダンな邸宅が美術館になったところ。

    美しいステンドグラスとか暖炉とかキャビネットがとかがある、とても洒落た建物。

    ストリートアーティストたちが普段活躍する、廃墟ビルとか汚らしい横道とか、高架下とかとは正反対の空間だ。

    そこに、バンクシーの作品がしっくり馴染んでいるなんて、とてもいえないけれど、逆に、そのコントラストが、興味深く、圧倒的だ。

    だから、美術館に取り込まれたのではなくて、きっとバンクシーはそのギャップを狙ったんだ、と思った。

    部屋ごとに「兵器」「監視社会」「商業主義」「それでも希望がある」といったテーマがある。

    作品の一点一点も、額にはまっていたり、彫刻台にのっていたり、一点一点に解説がはいっていたり、典型的な「美術館」の見せ方だ。

    作品の横にちんまり解説ラベルが貼られていることなどに、はじめは笑えてしまった。だって、ストリートアートは、美術を読み解くリテラシーのある一握りの人々だけではなく、

    町に生きる一般の人々に向けた直接的なメッセージすることが命であり、現代美術館によくあるような難解な作品ではない。

    ほんとうはバンクシーの表現に「解説」なんて無用なんだから。

    でも、作品の一点一点をみるうちに、

    実は、この「美術館」という空間で展覧会自体をやることが、

    彼の裏返しのコンセプトなのではないかと思えてきた。

    そこには、わたしを含め、見に来た観客もが巻き込まれている。

    アートって誰のためのものなのよ?

    美術館って何よ?

    つまるところ、アートって何なの?

    「美術館に展示されたものがアートである」

    というわたしたちの概念に、逆説的にパワフルに問いかけてくる。

    一点一点の作品だけではなく、この展覧会全体をふくめて、わたしたちが生きる社会について、裏返しの視点から考え直させてくれる。

    たぶん、絶対的な答えなんてないんだろう。

    だって、アートの定義はその時代に生きる人々が作っていくんだから。

    むしろ、つくられた定義に迎合したりせず、その限界に果敢にチャレンジし、命がけで根本的な問いかけをしてくる、それがホンモノのアートだと、わたしは思う。

    レンブラントも、ゴッホも、アンディ=ウォーホールもそうだったように。

    それがアートの力だと、今回の展覧会をみて再確認した。

    ストリートアートのすばらしさのひとつは、そのユーモアにある。

    笑いには、愛が裏打ちされている。

    どんなに困難な社会に生きようと、人間がもちえる、すばらしいバランス感覚だろう。

    この展覧会は、「Laugh Now 」というタイトルだ。

    展示された作品の中に、猿が首から看板を下げているものがあった。

    そこには、こう書かれている

    「Laugh now, but one day we’ll be in charge」

    なんとブラックな風刺のきいたメッセージではないか。

    それでも、わたしたちは、少なくとも、バンクシーの展覧会に巡り会えた。

    一点一点の作品を、同時にこれを見に来たわたしたち自身をも、

    笑い飛ばせることが今日の幸せだと思う。

    明日からエジプトにいく。

    2011年、アラブの春の時、かの地では、たくさんのアートがストリートに花開いた。

    でも、権力側は、反体制的な「ゴミ」として、みごとに一掃したのだそうだ。

    もし、残っているならば、是非、アートの力に出会ってみたい。

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    2017.1.1

  • カラヴァッジオの黒ずんだ爪:ナショナルギャラリー

    とんでもない出来事が目の前で起こっている。

    深夜の闇深く、群衆のエネルギーの中で。

    作品タイトルを見なくったって、聖書の話を知らなくったって、現場の緊迫感が十分に伝わることだろう。

    闇と喧騒の中に、そこだけ柔らかい光があたった顔がある。痩せて、うつむいた苦難の顔。

    イエス・キリストだ。

    caravaggio

    私が見ているのは、17世紀イタリアの画家、カラヴァッジオが描いた大作「キリストの捕縛」。

    イスカリオテのユダの裏切りによって、イエス・キリストが捕まってしまうシーンだ。

    捕縛作戦で、捕まえるべき人物が誰かすぐ分かるよう、ユダがキリストに接吻して挨拶するのが合図になっていた。

    絵の中では、キリストの肩をぐいっと掴んで、キスしようとする、赤ら顔の禿頭の男が、そのユダである。

    その顔には、師を裏切る心痛を感じつつも、なんとしても使命を遂行しないと自分の身が危険にさらされるという決死の表情がみてとれる。

    キリストの左手には、さっきまで師とともに歩んできたのに、この期に及んで叫びながら場から逃げ出そうとする弟子の顔がある。

    ユダや弟子の表情とのコントラストで、キリストの孤独がますます浮き彫りになる。

    ユダの口づけを気持ちの上では拒みつつも、かつての弟子と自分の運命を受け入れた静かなしかし寂しい表情だ。

    ここにも、その複雑な心境がみごとに表現されている。

    「キリストの捕縛」は、これまでたくさんの画家たちが手掛けたテーマだ。

    しかし、目の前で起こった瞬間的な出来事として、これほどまでドラマチックに説得力をもって描いた画家がいただろうか?

    もう一度絵をみると、右隅にまた違う立場でこの場に居合わせた人がみつかる。カラヴァッジオ自身だ。

    右手にランタンを下げて、逮捕する側にいて兵士を助けているのか、あるいは、画家としてこの瞬間を脳裏に叩き込もうと観察しているのか。

    前者だと解釈するならば、逃げ出そうとする弟子と同じく、キリストを裏切る側にいる。

    でも、おそらくは全ての人間がキリストを裏切る側にいるのだというメッセージにも読み取れる。

    キリストの孤独がなおのこと浮き彫りになる。

    後者だとすれば、まさにカラヴァッジオらしい、見る側をもこの絵の中に引きずり込む表現だ。

    ランタンをもつカラヴァッジオの指の爪をみると、なんと黒ずんでいる。

    それは画家の手であり、罪を背負った人間の手なのかもしれない。

    ナショナル・ギャラリーで開催中の「Caravaggio Beyond」展は、

    タイトルどおり、天才の作品と彼から影響を受けた後期の画家たちの作品が展示されている。

    全体を見渡して、なんといってもカラヴァッジオ作品が圧巻だった。

    カラヴァッジオの手によるものは全部で6点。しかも、そのうち3点はナショナルギャラリーの所蔵品である。

    ということは、この有料特別展示で注目すべき作品は3点しかないということ。

    それでも、わたしは、そのたった3点を見るために、訪れる価値のある展覧会だと思う。

    2016.12.19

  • 画家たちのヒーロー

    「ぼくらはみな、ドラクロワの言葉を使って絵を描いているのさ」

    そう言ったのは、セザンヌだ。

    19世紀半ば、若い画家たちは、アカデミズムの伝統の縛りから抜け出ようとしていた。

    そんな彼らにとってヒーローだったのがドラクロワである。

    セザンヌのほかにも、ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、マティス、、、、。

    こんなに多彩な方向性もバラバラの画家たちが、

    自分たちが目指すべき方向はドラクロワだと絶賛したことは、驚きだ。

    今、ナショナルギャラリーで開催中の「ドラクロワ:近代美術の幕開け」展は、ドラクロワの作品が後輩の画家たちの作品と並んで展示されているという点で、とてもユニークな展覧会だ。

    だが、全体を見終わって、ドラクロワの表現の何が後の画家たちひとりひとりに影響を受けたのか、はっきり言ってわからない。

    それなら、ドラクロワに集中した展覧会の方がよいのではという声もある。

    だが、展示場を二度目に回って、彼の影響は表現技法というよりも、制作に対する態度なのだと、わかった気がする。

    その意味では、ちょっと玄人受けする展覧会かもしれない。

    オーソドックスな展示方法ではない構成がとられているからこそ、

    当時のドラクロワの卓越さが別の角度から理解できたという意味で興味深い展覧会だった。

    ドラクロワの時代には、フランスのアカデミズムが権威の光を放っていた。

    ドラクロワは、当時では珍しく独学の画家だ。

    学校では、過去の巨匠たちの模倣が基本だった。

    そこでは、まず色を使わないで、手本の作品のデッサンをするのが当たり前だったという。

    ところが、ドラクロワは、はじめから色を使った。

    作品のすべてを丸ごと、自分の脳裏に焼き付けたのだ。

    やがて、色の表現は、彼の画業の中で最も重要な要素となった。

    当時のアカデミズムでは、わかりやすい物語を伝える事がよしとされた。

    ドラクロワは、典型的な物語よりも、ケオスのエネルギーを、人間の複雑性を描いた。

    それが、例えば、あの大作「サルダナパルスの死」に対する当時の批判になったのである。

    後世の画家たちがドラクロワをヒーローだとしたのは、

    そうした既存の概念を突き破るような、新しい目となってくれたからではないだろうか。

    私たちの見方は、その時代、その社会のありように影響を受けて、ある種の枠にはまっている。

    アートは、その枠を外して、別の角度から世界に光をあててくれるものなのだ、

    この展覧会をみて改めて感じたように思う。

    Eugène_Delacroix_-_La_Mort_de_Sardanapale

    2016.3.14

  • フェイス・オブ・ブリテン-英国の顔

    「イギリス人であるとはどういうこと?」

    「肖像画って何?」

    肖像画美術館で開催中の特別展、『FACE of BRITAIN』は、そんな疑問をまっすぐに問いかけてくる。

    -副題には、『肖像画を通してみるNation (国民国家)』とある。

    イギリスは言うに及ばず、どの西洋諸国も今や多民族が共存する国家だ。

    片や待ったなしの移民問題やイスラムとの軋轢で、

    「ある国の国民である」とはどういうことなのか-そんな根本的な問いにわたしたちは揺さぶりがかけられている。

    だからこそ、欧米のミュージアムでは、アイデンティティー問題を問う展覧会がますます増えてきたのだろう。

    翻って、この問題は私自身にも身のつまされる問いでもある。

    日本で生まれ育ち、40代になってからの留学がきっかけでイギリスに渡り、この国に家族をもち、生活をし、おそらく骨を埋めるだろう、

    では、わたしは日本人なのかイギリス人なのか?

    どこまでいっても根無し草のよそ者でしかないのではないか?・・・

    片や、アイデンティティーを巡るミュージアムの問題は、実はわたしの研究テーマでもある。

    そんなわけで、これまでたくさんの展覧会をその観点から観てきたわけだけれど、

    アイデンティティーという難問を、ミュージアムの展示のなかでいかに公平公正に物語るのか-失敗するケースも少なくない。

    そんな中、この『FACE of BRITAIN』は、内容、解釈、構成、すべてにおいて優れた展覧会だったと思う。

    展覧会は、5つのテーマで構成されていた。

    「Power」を表す肖像画 ・ 「Love」を謳う肖像画 ・ 「Fame-誉れ」を促す肖像画 ・ 普通の「People」を捉える肖像画 そして 画家自身の「Self」を見つめる肖像画。

    どれもが内容の濃い展示だったけれど、このブログでは、特に興味深い作品や新しい解釈があった「Love」「Self」「People」の展示室について触れたい。

    例えば、「Love」

    - 愛する者をモデルに、画家に絵を依頼する事は、よく知られた肖像画の役割だろう。

    だが、時には、他界した者、二度と出会えぬ者を永遠にそばにおいておきたいという、測りがたい熱情がこめられる事もある。

    数時間後には射殺されるジョンがヨーコと抱き合っているシーンを捉えた写真も、

    あるいは愛する若妻が亡くなり、彼女の体がまだ温かいうちに画家ヴァン・ダイクを呼び寄せて描かせた絵も、その思いを伝える。

    写真が開発されたヴィクトリア時代には、死んだ子供を撮影して家族のアルバムの中に入れる習慣があったのだそうだ。

    当時は幼い子供の死亡率が現代人の想像を絶するほど高かった事を思いおこせば、

    その家族アルバムの存在自体に心を動かさずにはいられまい。

    自分自身をみつめる内省的表現も肖像画の永遠のテーマだ。

    「Self」の展示室には、

    女性の社会的な地位がまだまだ低かった19世紀の一女性画家の自画像から、

    自らの血を使って赤い頭像を作った現代アーティスト、マック・クィーンまで並んでいた。

    中でも目をひいたのは、イギリスで生み出された最も初期の自画像だ。

    小さな板に描かれた二人の男性像。

    パレットをもっているのが画家フリッケ自身。隣で楽器をもっているのは牢獄で一緒だった画家の友人だ。

    この絵は、牢獄(ロンドン塔?)に二人が捕らわれの身だった時に描かれたものと、解説される。

    どちらかが処刑された後、友を覚えておきたい、自分を忘れないでほしい、という願望がこめられているのだろう。

    その願いは、他者の眼を通して永遠に行き続けたいいう、人間の根源的な思いと通じている。

    by Gerlach Flicke, diptych, oil on paper or vellum laid on panel, 1554
    by Gerlach Flicke, diptych, oil on paper or vellum laid on panel, 1554

    「People」の展示室は、

    歴史的、社会的な有名人ではなく、名も無き人々をとらえた肖像に焦点をあてる。

    鑑賞者が目にするのは、奴隷として連れてこられ自由市民になったイスラム教徒、ロンドンで差別と闘った黒人と白人のカップル。

    極端に背が高い男性など、いわゆる「フリーク」と言われた人々・・・。

    興味深かったのは、イギリス特有の作品を生み出したウィリアム=ホガースの描いた肖像画だった。

    王侯貴族を描くことが肖像画のそもそもの役割だったが、

    18世紀になり演劇が流行ると、有名な俳優もその対象になり始める。

    ところが、ウィリアム=ホガースが描いたのは舞台の上のセレブリティーではなく、芝居を観にくる普通の人々の様子だ。

    明日には死刑になるという女性を描いた彼の版画も展示されている。

    この部屋には、ホガースのほかにも、「人間」の多様性や彼らのバイタリティーに興味をもち、社会全体を見抜こうとするアーティストたちの眼差しがある。

    after William Hogarth, mezzotint, (1733)
    after William Hogarth, mezzotint, (1733)
    by William Hoare, oil on canvas, 1733
    by William Hoare, oil on canvas, 1733

    ことほどさように、ひとつのテーマを扱った展示室もおおいに面白かったし、

    そこで選ばれた展示品や展示がつくるストーリーからも新しい発見があった。

    さらに付け加えなければいけないのは、

    この期間限定の特別展示が、別に設えられた企画展示室にまとめられたのではなく、

    常設展示室のあちこちに散らばった5つの小部屋が、この期間だけいつもの展示を外して、そこに持って来ている事だ。

    そうすることで、来館者の経験がまとまりのない断片的なものになるかもしれない。

    だけれど、この意図的な構成によって、常設展示に飾られた他の肖像画作品に対しても、新しい光があたるのではないか。

    思えば、「肖像画美術館」そのものが、王侯貴族や政治家、偉人賢人などの肖像を並べることで、

    まさに「英国性」というまとまったひとつのアイデンティティーを育てる場として機能してきた。

    この「フェイス・オブ・ブリテン」は、

    そのようなまとまったアイデンティティーがあるわけではなく、

    わたしたちの社会は、歴史上常に、多様で、流動的な人々の像が共存してきたし、

    今まさにそのような波の中にあるのではないかと問いかけている。

    もし、あえて「英国性」というものを見つけようとするのなら、

    「Love」や「Self」といった、いわば肖像画の普遍的なテーマで構成されることで、

    そのテーマの下に選ばれたひとつひとつの顔が交錯するなかに、見え隠れするのだろう。


    ロンドン肖像画美術館 2016年1月4日まで

    http://www.npg.org.uk/whatson/simon-schamas-face-of-britain/exhibition.php


    2015/12/27

  • ぶさいくな王:ゴヤの肖像画展

    ロンドンでは、近年肖像画に焦点をあてた展覧会が多い。

    ナショナルギャラリーでは今、ゴヤの肖像画をテーマにした特展をやっている。

    -ご存知のように、18世紀後半スペインを代表する画家だ。

    描かれた対象のほとんどは言うまでもなく王侯貴族、スペイン風の豪華な衣装をつけた高貴な方々である。

    そんな中、ぷっと吹き出したくなるユニークな顔にもいくつか出くわした。

    こんな顔を描いて、モデルから何も言われなかったのかと心配したくなる面さえある。

    これが、イギリスのほぼ同時代の肖像画家、ジョシュア・レイノルドだったら、きっと、もっと美しくしあげただろう。

    逆に言えば、ゴヤは、パトロンをけして美化しない正直な人だった。

    だが肖像画に焦点をあてた展覧会をみていくうちに、そのぶさいくな顔が、

    この画家の「黒い絵」の時代の、人間社会の暗部を描く画風にも重なった。

    ゴヤといえば、わたしが好きなのは、

    ナポレオン軍によるスペイン民衆の虐殺を描いた「マドリード、1805年5月3日」や「巨人」などの、

    人間の悪を抉り出すような絵や、その愚かさをユーモラスに描いた小品だ。

    民衆の生活や当時の社会全体に目を注ぎ、鋭い観察力でそれをアートとして表現した、画家が聾になってから暗黒の世界で制作した作品。

    彼が尊敬してやまなかったベラスケスと一線を画す独自の芸術表現だ。

    今回の展覧会の中心は王侯貴族の全身像を描いた立派な肖像画、いわば彼の表である。

    画家としての名誉と生活の糧を得るための、ゴヤの表の顔だ。

    わたしのように、暗黒を描くゴヤに興味がある人にとっては、

    今回の展覧会はつまらないかもしれない。

    解説が極端に少なく(ありすぎるのも、困りものだが)、その点も展覧会のつくりこみが弱いと思う。

    だが、その王侯貴族たちの顔のなかにも、

    ゴヤらしい真実を追究する観察眼があること、

    ある種のユーモアをこめてモデルの人間臭さを正直に描いている事を知り、その意味で表に裏がかさなって面白い。

    表裏でいえば、この展覧会で一点気になった小さな小品があった。

    表には、ナポレオンを倒し、スペイン王室にとっては恩人である、英国軍人ウェーリントンを描いた小さなスケッチ。

    その裏には、友人を描いたチョークスケッチ。

    Friar Juan Fernández de Rojas

    簡単なスケッチだけれど、

    眠っているのか、死んでいるのか。いや、きっと死んでいるのだろう。なぞめいた魅力ある絵だ。

    死の床の古い友人を描く観察力とタッチは、

    まちがいなく、あの「黒の絵」の手になるものだった。

    下の絵は、重い病気になった時のゴヤの自画像 (Friar Juan Fernández de Rojasとは異なる)

    07.SelfPortraitwithDoctorArrieta
  • 大英博物館での「マンガなう」展

    昨今、欧米のミュージアムでは日本の展示に「マンガ」は欠かせない文化だ。世界に冠たる博物館、大英博物館でも、現在、玄関近くの小さな展示室で特別展をやっている。

    題して「マンガなう」。副題には「三世代のマンガ」とある。

    戦後三世代を代表する作家は、ちばてつや、星野之宣、中村光の三人だ。

    外野的視点から面白かった事は、ふたつ。

    まず、それぞれの作家が大英博物館に依頼されて、今回のために新作をつくり、その原画が展示されていること。

    例えば、ちばてつやは、ゴルフの発祥地セント・アンドリューでのゴルフをネタにした。

    星野は、時空を超えるミステリー - 古代の歴史との関わりが大英博物館と絡んでいるのだろう。

    中村は、ブッタとキリストが現代の東京で漫画を制作するという設定だ。

    大英博物館あるいは英国をキーワードにしたときの、三つの世代の異なるアプローチに、

    戦後日本の世界に対する考え方が反映されているという、主旨だろうか?

    いずれにせよ、この展示からは、来館者の目にはそのように映ってしまったとしてもしかたがない。

    ではなぜ、大英博物館は日本の3世代を代表する漫画家とし、あまたある漫画家の中から彼らを選んだのか。

    残念ながら、展示はそのことに触れていなかった。

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    もうひとつ面白かったのは、

    大英博物館の日本担当の学芸員がそれぞれの作家たちにインタビューした状況を、マンガチックに紹介していることだ。

    わたしは、数年前に大英博物館のアジア部門で働いていたので、

    たまたま日本関係の学芸員たちを知っているのだが、

    たとえば、ティム・クラークはもともと浮世絵の、またニコラは陶磁器の専門家で、実は現代漫画の専門家ではない。

    言い換えれば、彼らにとっても漫画は新しい分野で、それなりのチャレンジであるはずだ。

    確かに、いまや、日本文化を紹介する欧米の博物館美術館は、「漫画」は欠かせない存在になっている。

    だからこそ、ふだんは展示の裏側にいるはずの学芸員が表にでて、

    漫画作家と学芸員のパーソナルな出会い自体を、展示に持ち込んだことはとても新鮮で正直なアプローチだった。

    その一方で、だったらなおのこと、なぜ、ちば、星野、中村の3人を代表として選んだのかを、

    この展示のなかで説明してほしかったと思う。

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    それにつけても、漫画を読むことは、カイコの中にいるような、とても個人的で親密な時間だ。

    その経験そのものは、博物館という公的で開かれた環境のなかで、いったいどう現しえるのだろう?

    漫画と博物館の文化メディアの違いをどう乗り越えるのか、(あるいはそんな必要は、実はないのか)

    きっと、そこに、漫画を博物館という空間のなかで表象することの難しさがあるに違いない。

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    聞けば、2年前に大英博物館で行われた春画展が、やっと日本で開催の運びになったらしい。

    素晴らしいコレクションで構成された展示、大英博物館で展示された時は大変好評だった展示を、

    大英博は本国日本で紹介したいと考え、受け入れてくれる日本の博物館を長い間探したものの、

    大きな国立博物館からは悉く断られた。

    内部筋から、大英博物館からの依頼ならいつもは二つ返事でゴーするはずなのに、日本の権威ある博物館ではこのテーマは受け入れられなかったことを聞いている。

    やっとのことで、小さな博物館(永青文庫)で展示の運びとなった。

    あの素晴らしい展示が、春画という文化を生み出した当の日本人の目に広くわたること、そのこと自体はとても喜ばしい。

    博物館関係者や専門家はともあれ、日本の一般の人々のあいだでは、どのように受け止められているのか、とても興味深い。

    春画と漫画は、読む側の経験という意味で重なるところがあるように思えて、ついつい、話が広がってしまった。

    2015/10/10

  • 陰鬱なテーマパークから明るい未来へ:バンクシーのディスマランド

    2015年初秋、イングランド西海岸のある寂れたリゾート地に、突如としてテーマパークが現れた。

    その名も「ディスマランド Dismaland」という。

    Dismal=陰鬱な、みじめな、気がめいる ・・・ という英語がひっかけてある。

    ロゴやポスターから 「ディズニーランド Disneyland」を皮肉っているのがすぐに読み取れる。

    明るく、笑い声に溢れ、夢のようなアミューズメントパーク、ディズニーランドとは正反対のイメージを前面におしだしているのだ。

    気のめいるようなこのテーマパーク、5週間限定の開催なのだが、大変な人気で、チケットをとるのは至難の業だ。

    人気のひみつは、チケットがたったの3ポンド=600円ということもあるが、

    このテーマパークを手がけたのが、世界的に有名なストリートアーティスト、あの覆面のBanksyだからにちがいない。

    運よく、チケットをとれたわたしたちは、ブリストル郊外にあるかつてのリゾート地 Weston-Super-Mareを目指した。

    駅を降りて、小さな町中を15分ぐらい歩くと、海からは冷たい風が吹き、向こうの方に暗雲がたちこめていた。

    まさに、Dismaland日和。

    Dismalandの看板がかかった正面建物(ゴチック建築の廃墟)にはいれば、

    いきなり、セキュリティーチェックを通ることになる。

    スタッフたちは、ミッキーマウスの耳をつけて、不快な顔つきでわたしたちに近づいてきた。

    セキュリティーチェックの機械も、大きな無線機も、拳銃もすべてダンボールでできている。

    一緒にいった友人など、チケットを破られ、いきなり口のなかにチケットをいれられたのだそうだ。

    どの来場者にもこんな対応をしているのだろう。

    実はこれは、カナダ人アーティスト、Bill Barminskiの作品で、

    テーマパークの商業主義/ポピュリズムと現代の管理社会を皮肉っているのだ。

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    そこを通過すると、ハワイアンがどよーんと流れ、枯れかけたやしの木が植わっている。

    今やすっかり荒廃したリゾート地。

    その荒れ果てた様子を逆に利用して、テーマパークができている。

    正面には、お化け屋敷のようなシンデレラ城が聳え立ち、城を囲む池には、警察の車がひっくりかえっている。

    その警察の放水車からでた水が噴水というわけだ。

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    薄暗い城の中に入ると、いきなりたくさんのフラッシュがたかれてびっくりしてしまう。

    カメラマンたちのレンズの先には、なんと、かぼちゃの馬車がひっくり返り、そこからシンデレラが仰向けに放りだされている。

    すぐにあのダイアナ妃の事故とパパラッチたちの事と結びつくに違いない。

    これはBANKSYの作品だ。

    その脇では、釣竿でアヒルのおもちゃを釣るコーナーがある。

    水は黒々とし、その中心には全身油まみれになったペリカンがいる-もちろん、いいたい事は、石油会社の油漏洩による自然環境破壊。

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    ボードの穴から顔を出し、なにかに扮装して、写真をとるコーナーでは、

    ボードには、二つのアナがあるだけで、なにも描かれておらず、ただ、「SELFIY HOLE=自画撮り穴」とある。

    みんな喜んで自画撮りしていた。

    自分を茶化すことが、ユーモア精神の根っこだと思う。

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    別のコーナーには、まさに今の惨事。

    大きな水槽の中に、たくさんのおもちゃのボートが浮かんでいて、どのボートも避難民たちで溢れているし、水の中にはぷかぷか浮かんでいる人もいる。

    来場者はそのボートを操縦できるようになっているのだが、コントロールがぜんぜんきかない。

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    テーマパークが設置された廃墟自体がそもそも惨めだが、

    会場内にいるピンクのユニフォームのスタッフたちも、決して笑うことはない。

    作品が扱うテーマも

    - 避難民問題、グローバル化、商業主義、管理社会、消費社会、警察や軍をめぐる権力問題、イスラム社会の問題・・・

    暗澹とした現代社会の様々な問題だ。

    そこには、Banksyたちストリートアーティストらしい、批判精神が徹底してみなぎっている。

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    とはいうものの、内外のアーティストによる様々な「アート」をみて、ああ、やられたーと思ったものは、正直2-3点しかなかった。

    ある美術評論家がいうように、どこか薄っぺらで、直接的すぎるからだろう。

    だが、それはひとつひとつの作品についての印象で、

    Dismalandが面白いのは、

    むしろ、このテーマパークそのもの、見捨てられたメランコリックな環境、そこに都会から足を運ぶ人々、私自身も含めて、全体でジョークを作り出していたことだ。

    当日見逃してしまったテント(長い列ができていたので断念した)があった。

    後で知ったのだが、そこでは、皮肉をこめた社会批判のポスターが何千枚と売られていた。

    ポスターには、イギリスのバス停の広告塔をあける鍵がついている。

    わたしたちが訪れた翌日、ロンドンの地下鉄やバス停が、そのポスターに差し替えられたというニュースが流れた。

    色鮮やかで目をひく写真やコピー文をつかい、いっけん、普通の商業ポスターのようにみえて、

    よくよく読むと、体制批判の内容。

    例えば、

    イギリス製の大量の兵器がイスラエルに売られ、ガザ地区の市民がいかに大勢、殺されたかを告発するポスターだ。

    ちょうど、ロンドンの見本市で「軍兵器関連のものが取引されるフェアー」がオープンしたばかりで、それにあわせたらしい。

    そういう見本市があるなんて、おおっぴらに宣伝なんかしないから、

    ロンドンの人々はほとんど無知で、そこにきっと効果的な気付きを与えてくれることだろう。

    差し替えた張本人は、Dismalandのテントでポスターをかった普通の人たちだ。

    なかには、マクドナルドのマックの広告が、子供が描いた自然いっぱいの絵になっていた。

    「毎日、息子が学校にいくバスを待っていると、こういうジャンクフードの広告をみて、興味をひくんだ。

    糖尿病になるんじゃないかとひやひやだよ。

    だから、マックの広告をとって、息子の絵にさしかえたんだよ。この方がずっといいだろ?」

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    こういう行為はむろん違法だ。

    興味深いのは、そうやって、市井の人々が、突然ゲリラのストリートアーティストになったこと。

    そういう行為を支持する人々が大勢いることだ。

    今までなら「プロ」のストリートアーティストにまかせていた。

    自分自身がこういう行為をしたのは、もちろん愉快犯的な要素もあるだろうけれど、

    今すんでいる世の中が絶対に変だと思うから、敢えて行為を起こしたに違いない。

    その奥には、やはり現状の政治に対する鋭く、胸のすくような批判精神がある。

    Dismalandが、西海岸の寂れたリゾート地の短期のイベントに終わるのではなく、

    それがロンドンにも飛び火して、草の根の、また今までにないような表現、特定のアーティストではなく、普通の人々が自主的にする表現する行為に広まった事自体が、たいへん興味深い。

    ブリストル育ちのBanksyは、もともとグラフィティーをやっていた。

    グラフィティーは、仲間にだけ向けた表現活動だ。

    ストリートアートはもっと一般の人を相手にする。

    美術館に行くようなちょっと高級趣味の一握りの人々だけではなく、町に生きる、町を歩く人々に向けて表現している。

    Dismalandには、子供から高齢者、車椅子の人々・・・あらゆる人々がきていた。

    驚く事に、学校からの子供たちの団体もいた。

    ロンドンからわざわざやってきた現代美術館に行くようなおしゃれな人たちもいたけれど、来場者の多くは普通の人々だった。

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    2015/9/18

  • 身体への賛美:古代ギリシア・大英博物館

    一生の思い出に残るような特別展示を観た。大英博物館で開催中(2015春夏)の古代ギリシア美術展「Defining Beauty:the body in ancient Greek art」である。

    副題どおり、彫刻作品を中心として「ボディー」に焦点をあてた展覧会だ。

    最初の展示室で迎えてくれたのは、うづくまるアフロディーテや円盤投げ選手など4体の像。

    どしょっぱつから心を奪われてしまった。

    身体全体のバランスも、そのボリュームも、ポーズも実に美しい。

    背中の線も、臀部のえくぼも、指に浮き出た血管も、ひと房の髪も、うすく開いた唇も、

    どれをとっても美しい。

    彫刻によって縁取られた部屋の空間全体までが、引き締まってみえる。

    古代文明のなかで、ギリシアだけが、人間の裸体に美を見出したのだという。

    身体の各部のバランスや腕の角度、頭の傾き、すべて数学的な美しさにのっとっているのだという。

    直感でとらえる美しさは、その計算された幾何学からくるのか・・・。

    一体一体の展示物だけではない。展示のしかたもよく考えられていた。

    周囲を回りながらさまざまな角度から堪能できるだけでなく、

    4体が響きあうように、それぞれの位置や高さや照明が考慮されている。

    展示全体の構成も内容もすばらしい。

    感心した事のひとつは

    ギリシアが他地域の美術からどのような影響を受けたのか、その影響をいかに独自に展開させたのか、あるいは作品づくりの根本にある考え方の相違は何かなどをわかりやすく、紐解いていることだ。

    たとえば、古代エジプトの青年立像とギリシア初期の青年像を並べて、

    古代エジプトを手本にして、一歩を踏み出す立像をつくるかを学んだ事、

    古代エジプトの場合、立像の裏側には支柱があるだけだが、支柱を取り除いて、ちゃんと青年の背中やお尻をリアリスティクに表現する新しい挑戦がなされたことがよくわかった。

    確かに、この特別展には大英博物館の常設展で見ることができるものがたくさん使われている。

    でも、こういう構成だからこそ新しい発見があり、それは特別展示ならではだと思う。

    セクシャリティーに対する古代ギリシアの独特な考え方もよく理解できた。

    両性が入り混じったディオニソスやヘルマフォディトスなど、その崇高でエロチックなこと!

    こ展覧会に2度目に足を運んだ時は、小像にも目がいった

    ペニスを立て自分の胸にナイフをつきつけるAjaxの像など、そこには抽象的な奥深さがある。

    最後に待ち受けていたのは、あのミケランジェロが絶賛した「ヴェルベデーレのトルソ」だ。

    興味深いことに、この展示では、そのプロローグとエピローグに、いわばハイライトをもってくる。

    そこからは、この展示をつくった学芸員の古代ギリシア美術に対する最大限の敬意が窺える。

    最後の部屋のふたつの彫刻は、わたしたちの目の高さに展示されているのだが、

    そのさりげなさにも、黒子としての学芸員の静かなしかし粋な演出が隠されているような気がする。

    わたしも多くを語らず、これくらいで筆をおくことにしよう。

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  • ザ・ペインター:マルレーネ・デュマス展@Tate Modern

    ひとりの裸の幼女が立っている-右の手は濃い紫に、左手は赤く染めて。膨らんだ腹は未熟な体内が透けて出るかのような柔らかな青で、四頭身の白く広がった額とコントラストをつくっている。

    額の下のくぼみには、攻撃的で同時におびえた眼が二つ。

    あなたをまっすぐにみている。

    ふっくらした頬に唇をぎゅっと結び、弱弱しい膝をがくがくさせながら、彼女は、どこかわからない、どこでもあるような、白い空間に立っている。

    まるで、はじめて人を殺した時の犯罪者のように。

    タイトルは「The Painter」。

    南アフリカ出身の女性画家、マルレーネ・デュマスの2メートル長の油彩作品である。

    モデルはデュマスの娘であり、あるいは彼女自身なのかもしれない。

    そこには、母と娘の関係や見る者と見られる者の関係が浮き彫りになる。

    テートモダンで開催中の「マルレーネ・デュマス」展は、14の展示室を使って、

    彼女の60年のキャリアーを年代順に並べた大掛かりな展覧会だ。

    独特の淡いタッチなのに、捉えた人の深層がにじみ出る力強い作品が並んでいる。

    それは時にとても親密な相手であったり、歴史的な、社会的な人物だったりする。例えば、

    ナオミ・キャンベルやダイアナ妃、オサマ・ビン・ラディンといったメディアに騒がれた人々、

    パレスチナ紛争で殺害されたある女性の死顔、

    フランス革命でマラーを殺害した女性の頭蓋骨、

    あるいは、イエス・キリストやマグダラのマリアなど伝統的な西洋絵画の主題になった人々。

    それがだれであろうと、彼らひとりひとりの想いや彼らが背負った人生に親密に寄り添って、

    それを共通の人間性として表現しようとしているのだ。

    展覧会のラベルは、すべてデュマスの言葉が添えられている。

    そのひとつひとつは、彼女の絵のようにポエティックである。

    「The Painter」に添えられたデュマスの言葉を書き加えておこう。

    絵画は、歴史的に女性的なものとしてみられてきた。

    だけど画家は男で、女はモデルだった。

    ここでは、わたしの娘が主役を演じている。

    彼女は自分を描く。

    モデルが画家になる。

    彼女が彼女自身を創造する。

    彼女は、あなたを喜ばすためにいるのではない。

    自分を喜ばせているのだ。

    問われるのは、

    「彼女はだれか?」ではなく、

    「あなたはだれなのか?」

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    2015/5/16

  • 1000枚のモネを売った男

    日本の人は印象派好きだ。彼らの陽気で、光にみちた明快な絵は、確かにわたしたちの眼を楽しませてくれる。だけれど、そのスタイルが誕生した頃、社会からはたいへんな罵声を浴びせられた事、「印象」という名だって、実は、こいつらの絵は、「たかが印象でしかない」という、当時の批評家の皮肉から生まれた事を知ると、なぜ、こんな素敵な絵が?と首をかしげる方が多い。

    絵に限らず、社会の評価は常に変化するものだ。

    その意味でも、伝統的な美術のあり方を塗り変えた、若手アーティストの挑戦は賞賛するに余りある。

    だが、歴史をかえたのは、ステージに立つ画家だけの功業ではない。

    その舞台裏にも、アーティストたちを支え、市場を動かし、新しい鑑賞をお膳立てする、果敢な男がいた。

    その名はPaul Durand-Ruel 。パリの画商である。

    印象派の展覧会というと、そのアーティストや作品自体に焦点をあてるのが王道だが、

    ロンドンのナショナルギャラリーでの展覧会「印象派を創造する」は、その裏舞台に焦点をあてた興味深い内容だった。

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    まず、画商デュラン-ルエルのドメスティックな側面から、展覧会ははじまる。

    ルノワールが描いたデュラン-ルエルの子供たちの絵、モネが描いた彼の家のドア・・・

    そこには、彼の居間の写真があり、その空間を彷彿とさせ、

    画家と理解者の暖かい人間関係を感じさせる展示になっている。

    次に、仕事に対する思い。

    まだ20代、父から仕事を受け継いだ時、実はあまりやる気が無かったのだが、

    ミレーや、ドラクロワ、ルソーの絵をみてから、この仕事に生きがいを感じるようになったという。

    彼の情熱に火をつけたのは、マネの絵だった。

    1860年代当時、マネの作品は社会から非難を浴びていた。

    だが、やがて印象派とよばれることになる若手画家たちにとっては、目指すべき憧れだった。印象派が生まれる前夜である。

    そのマネの絵を何枚も、デュラン-ルエルは買い集めた。常識外れの博打だ。

    やがて、マネやピサロに出会う。

    それも普仏戦争を避けて亡命していたロンドンで。

    彼はすぐに射程を広げ、その若い画家たちの制作活動を、経済的に精神的にサポートした。

    だが売れなかった。破綻しかけたことも1度や2度ではない。

    その状況をかえたのはアメリカだ。

    アメリカは当時急速に経済力を伸ばしていた。

    価値感も、ヨーロッパの古い伝統とは一線を画す、新しいものを求めていた。

    その市場に印象派のアーティストたちの作風はぴったりあったのである。

    今回の展覧会は、1905年、デュラン-ルエルが企画したロンドンでの展覧会の再現で終わる。

    考えてみれば、当時のナショナルギャラリーは、アカデミーオブアーツの本拠地であり、

    そのアカデミーは、海を渡ってやってきた印象派をコケおろした組織だった。

    翻って、今日、当のギャラリーに集まってくる観客たちのほとんどは印象派ファンだ。

    社会は変わる。

    わたしたち個人の価値感も変わる。

    なんだか、自分や社会を鏡でみるような展覧会だった。

    ある意味、ナショナルギャラリーそのものが、自分の過去を鏡に映す機会だともいえる。

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    追記:この展覧会では、個人蔵の作品がたくさんあり、決して普段はみられない絵が並んでいる。

    それもこの展覧会のプラス面である。