カテゴリー: エキシビジョン・レビュー

  • キモノを魅せる大展覧会@ヴィクトリア&アルバート美術館:伝統から21世紀世界へ

    「KIMONO:京都からキャットウォークまで」と題する展覧会がロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館(通称V&A)で開催中だ。

    キモノを扱う本格的な展覧会としても注目を浴びている。

    さすがV&A。装飾工芸で世界トップのこのミュージアムだけのことはある。

    キモノという、一国の服飾をその伝統やデザイン性だけではなく、その窓を通して日本の社会性を眺め、いかに21世紀まで発展し、欧米のデザインに影響を与えているか、幅広く奥深く展開してみせる。

    西洋の眼を通してみる展覧会だから、日本人の私にも新鮮な発見がいくつかあった。

    まず、フォルムの基本が17世紀くらいに出来あがって以来、現在に至るまで、大きく変化していないという事実。

    西洋の服飾史と比べれば、その長さは驚愕に値することを今更ながら気づかされた。

    変化が現れるのはフォルムではなく文様。だからその変化は社会や時代に応じてフレキシブルで実に自由だ。

    もうひとつ、性差があまりないこと−これも日本の中にいたら、あまり気に留めないことかもしれない。色合いや柄に多少の男女差があるけれど、形は基本的に同じである。

    だからこそ、キモノのアイデンティティーがジェンダーを超えて共有される。

    展覧会が例として提示していたのは、江戸初期、男性用と女性用の境目が曖昧であったこと。

    展示室は離れていたけれど、その延長上に、なんとThe Queenのフレディー・マーキュリーが家でキモノを気軽に身につけていたことを紹介する。

    性をめぐるアイデンティティーについて深い悩みを抱いていたフレディーにとって、キモノはある意味、隠れ蓑であり、アイデンティティーの開放だったかもしれないと展示は示唆する。面白い指摘だ。

    フレディーが日本に行った時に、自分で購入したキモノ。映画「ボヘミアン・ラプソディー」でもキモノを着ていた。

    展覧会全体のデザインも、日本の伝統を思わせる設えから、現代の開かれたファッションへと移行していく様子をうまく表していた。

    そこには、キモノが日常着から離れてしまっても、今も、節句や成人式、結婚式など、人生の節目で意味をなしていること。

    古澤万千子、松原良道、森口邦彦など、現代のキモノ作家を紹介しているだけではなく、

    デビッド・ボウイ、ビョーク、スターウォーズなど、世界の音楽界・映画界に影響を与えているかも語っていて、

    日本の伝統という閉じられた世界がいかに世界的に自由に展開しているかを、展示空間全体が物語っていたように思う。

    ひとつ残念なことがある。それは、今日のイギリス一般市民への広がりについて、展示ではほとんど語られていないことだ。

    今、ロンドンの若者たちの間では、ヴィンテージのキモノを、ドクター・マーチンのブーツやヴィンテージのジーパン、Tシャツに合わせるなど、気軽に普段着にとりいれるのが静かなブームになっている。

    展示を見に来ている人々の大半は中高年のイギリス人だが、なかにはファッションに敏感な若い人々も見かけた。展示場をでたあとのミュージアムショップには、なんとビンテージの日本のキモノが100—300ポンド(2〜5万円)くらいで売られていた。ポスターや付随するビデオでは、そのような自由なキモノの取り入れ方が一部紹介されているのに、展示にはその地べたでの広がり方にはほとんど語られていない。

    もちろん、限られたスペースで何を語り、語らないかの選別は必須だ。しかし、この展示のくくり方では、キモノは非日常の特別なコスチュームだけで終わってしまっている。かつて、欧米では高級食だったスシが、今はスーパーでも手軽に買えるようになったご時世に、せっかくの興味深い展覧会が、今のイギリス人が日常で袖を通すアウティングになっているその生命力を語っていないのは大変残念なことだ。

    とはいうものの、キモノを総括的に語る、よくつくられた展覧会だと思う。

    2020.3.10

  • 『小学三年生』:ロンドンの多文化共生を語る美術展

    ロンドンの地下鉄プラットフォームを歩きながら、いつもと違う大広告に目が入った。

    そこにあるのは小学生の集合写真。

    どこの広告?と、企業名を探すが、みつからない。

    「Year 3 プロジェクト」とあるだけ。

    Year 3とは、イギリス小学校の学年で、7−8歳の生徒たちを指す。

    なるほど、写真のこどもたちはそれくらいの年頃で、先生を中心にこちらをみて笑っている。

    駅を出て街を歩くと、営業車が飛び交う道路脇の巨大なビルボード(広告看板)に、同じようなクラス写真があるのをみつけた。

    この街で一体何がおこっているのか。

    答えは美術館にあった。

    実は、イギリスのアーティスト、Steve McQueenのテートブリテン美術館(Tate Britain) での展覧会の一貫なのだ。

    そのタイトルこそが『Year 3』。

    だからといって、美術展の「宣伝」ではない。だって、ビルボードに「Tate Britain」という言葉もなく、そもそもこの特別展は入場無料だから。

    美術館の巨大ホールの全壁面は、ロンドンにある学校のクラス写真で覆い尽くされていた。

    一枚一枚のクラス写真に写った子供たちの多様性といったら!

    黒人の子もいれば、ヒジャブを被った女の子もいれば、白人の子もいれば、アジア系の子もいれば、車椅子の子もいれば、トランスジェンダーの先生もいれば。。。

    世界的な都、ロンドンは多民族都市だ。人口の53%は移民である。

    多様性はもちろん「民族」だけではない。

    「Year 3」といえば、子供が家庭から社会全体に関心を持ち始め、

    自分は何者なのかと、自己のアイデンティティーを獲得していく年齢でもある。

    アーティストは、現代の社会状況を、その豊かさを、その共存を静かに表現しているのだ。

    そこには、アーティスティックな技巧もない。◯◯イズムもない。学術的な解釈もない。

    あるがまま。シンプルで、だから力強い。

    わたしが美術館を訪れた時、まさに写真に撮影された子供たちが、招待されて学校からやってきていた。

    思えば、一般的に、美術館経営の中で「子供」は、「教育の対象」でしかない。

    ところがここでは、彼らこそが、アイデンティーという現代的なテーマの主人公でありコンセプトなのである。

    Steve McQueenといえば、20年ほど前に、あのトラファルガー広場の第四の柱に、

    障害のある妊婦をモデルに巨大な彫刻を作ったアーティストだ。

    彼の表現には、常に社会から差別されたり、見過ごされた人々の目線がある。

    彼自身も黒人のアーティストだ。

    さらに興味深いのは、彼のプロジェクトが、美術館という枠組みを超えて、ロンドンの市中に展開したこと。

    実に約600点がロンドン中にあるという。

    なんとアンビシャスなプロジェクトであることか。

    「文化における多文化共生」とか「美術館教育」とかという議論を超えて、

    その現実が生きられている街中に、道行く人々の目に、すっと入ってくるのだ。

    振り返って、日本も多文化共生の時代を迎えた。

    日本のミュージアムもようやく多文化対応を模索し始めている。

    ロンドンほどではないでしょうと、あなたは言うだろうか。わたしの周りは日本人ばかりですよと。

    本当にそうだろうか?

    この9月日本に帰って、コンビニやカフェで働く人の多くが移民の人々で驚いた。

    海外に住んでいるから、たまに帰国すると、その変化に敏感に気づくのだ。

    大きな変動が起こっていることを、ひょっとしたら、あなたは意識から外しているだけかもしれない。

    「外国人」は、一時的な「旅行者」だけではない。

    いや、もはや、「外国人」という認識自体を捨てるべき時ではないか。

    その現実を、刻一刻と変化する日本の社会図を、見て見ぬふりをすることはできないだろう。

    ***

    展覧会は、2020年5月3日まで。

    ビルボードのプロジェクトは2019年の11月22日まで

    2019.11.15

  • 奈良の国宝が大英博物館にやってきた

    この秋、たくさんの国宝/重要文化財の仏像や神像が、はるばる古都奈良からロンドンの大英博物館にやってきた!

    夏の大「マンガ」展の後なだけに、ちょっと陰が薄くて、あまり広く知られていないかもしれない。

    私自身も、来たのはせいぜい一、二体だろうと期待薄だった。

    ところがどっこい、先日展示場を訪れたところ、その質と量にびっくりしてしまった!

    いつもは着物、浮世絵、甲冑、茶器などが並んでいる常設展示室が、

    今回の展示のために、3分の1は展示替えしたようにみえる。

    「国宝」も何体もある。

    いったい、どんなお宝が揃ったか、

    • 「天上天下唯我独尊」と天地を指差した『誕生釈迦仏像』 (国宝 東大寺)
    • おおらかな顔立ちの『夢違観音像』(国宝 法隆寺)
    • 700年頃といわれる持国天と増長天の力強い立像 (国宝 唐招提寺)
    • 教科書でも出てきた 聖徳太子像 (重要文化財 法隆寺)
    • 12世紀に作られた 能楽の三面 (重要文化財 春日大社) などなど。

    ざっとこんな感じ。

    わあ、あれも!これも! こんなすごいのが集まっちゃったんだ!!

    あまり日本の古美術を知らない私でさえ、見覚えのある美しい姿や勇姿が並び、心の中で、感嘆の声をあげてしまった。

    これだけの日本の宝が、今、この大英博物館に展示されている。ってことは、

    英国人はもとより、世界からここを来館した人々が、日本のお宝を、遠い日本まで行かなくても

    しかも無料(大英博物館は入館無料で、この特別展示も無料)で拝観できる。 なんて贅沢なことだろう。

    私のコーフンもやがて落ち着いてくると、

    今度は、このセッティングだからこそ、浮き立ってくるいろいろな面に思いが広がり始めた。

    まず、寺社仏閣とミュージアムじゃあ、場がまったく違うという、アッタリ前のこと!

    だが、その違いが大きい。

    たとえば、「夢違観音」なら、

    法隆寺という建物、内部の暗さ、お香、鐘の音、取り巻きのたくさんの像や装飾のしつらえ、周囲の祈る人々、奈良という自然環境など、総合的なコンテキストの中で、わたしたちはその像に出会う。普通はそうだ。そのために造られ、これまでも、その場に長く安置されてきた。

    ミュージアムでは、そういう全てのコンテキストから切り離され、無機質なガラスケースの中に、他と同じように置かれる。

    なんとバチあたりな、なんか味気ない、こんなはずじゃ、、。。。と、あなたは思うだろうか?

    だが、別の見方からすると、

    観音様や仏様をこんな至近距離で、目の高さで、像の後ろも横も四方八方から、すみずみまで舐め尽くすように目で堪能できる

    この首から肩、背中の線の美しいこと。それに初めて気づき、身震いしたりする。

    そんな体験、お堂の暗い中で、正面からしか像を仰ぎ見れないなら、あり得ないことじゃないですか?

    「持国天」と「増長天」は、日本のお寺なら、東西南北を守る四天王としてあるはずなのに、

    大英博物館のケース内では、二像だけが横並びで、フィギュアーのように立っている。なんと間の抜けた。。。

    本当なら、仰ぎ見る高さにあるから、表情だって夢に出そうなくらい恐ろしいのに。。正面からじゃ迫力ないワー。

    でもね、ミュージアムでは、すみずみまで照明があたっているおかげで、彫刻の細部がみてとれる。

    踏みつけられた邪鬼も、こんな面白い顔をしてたんだ。彫刻師が作り込んでいた時の手の跡が感じられる。

    崇拝の場とミュージアムで、決定的に違うもう一つのことは、一緒に展示されたものとの関連性・総合的なストーリーだ。

    大英博物館での展覧会では、この館が所有する日本のモノや他の外国のミュージアムから借りられたモノと間近で比較することができる。

    たとえば、法隆寺からきた11世紀の聖徳太子の木像のとなりには、大英博物館が所有する14世紀に描かれたという聖徳太子像の巻き物が展示されていた。

    同じモデルが、時期によって、どう描かれ方が変化したのかをみてとることができた。

    大英博物館には、日本からやってきた、12世紀の非常に力強い「不動明王立像」(国宝級と劣らないと私は思った)があるのだが、

    それが、奈良からの関連のモノと置かれるとより生き生きとみることができた。

    そういう比較は、やはり、奈良のオリジナルの場ではできないのではないかしら。

    どちらがあるべき設定だとか、どちらの解釈が正しいとか、言うつもりは毛頭ない。

    むしろ、同じものが多様な面をもつこと、違う角度からみれば異なって見えることを、もっと知りたいと思う。

    同じものを見ながら、信仰の魂を五感で感じるのも、あるいは制作された技術の巧みさや表現の変化を見るのも、

    出会う者の認識の枠によって、自由に変わるし、変えることができる。

    そして、認識の枠を構成する重要な要素のひとつが、神殿、寺院、ミュージアムなどという場なのだ。

    認識枠を構成するのは他にもある。

    見る人の宗教や政治志向や、その人が生きた時代背景、その時の気分。。。きっと無数にある。

    でも、個々人の認識の枠はできるだけ広げた方がよいし、柔軟である方がよい。常にそうでありたいと思う。

    ここまで書きながら、(飛ぶようだが)

    仏像の故郷の日本では、あの「あいちトリエンナーレ」が、無事終了したばかりだったと、ふと思い出した。

    ところで、「国宝」だの「重要文化財」などという名称やシステムは日本独自のもの。

    だから、大英博物館の展示の最初に、「国宝」に関する説明があることを、付け加えておきたい。

    最後に、今、イギリスに住んでいる方々はもちろん、訪れる予定の方々は、大英博物館の奈良の展示に足を伸ばされてみてはどうだろう。

    きっと、日本での仏像・神像との出会いとは、全く違う出会いをされるに違いない。

    それはきっと貴重な体験になるはず。

    *******

    大英博物館 日本展示室+第3展示室

    2019年 11月24日まで

    2019.10.16

  • 地球の肌:アンドレア・ガースキー展@ヘイワード・ギャラリー

    ロンドンのヘイワード・ギャラリーがリニュアル・オープンした。

    そのこけら落としの展覧会が、ドイツの写真家アンドレア・ガースキー(Andreas Gursky)。

    あの企画力のあるギャラリーが新展覧会で何をみせてくれるんだろう? 告知段階から気になっていた。

    地下鉄の広告ポスターにも目が奪われた。

    果たして、会場を訪れたら、やはり期待を裏切らない力強い写真展だった。

    ソーラーパネルの畑、90年代東京の株取引場、アマゾンの倉庫、イケアの工場、バフレーンのサーキット。

    どれも、群像を引きでとった集合写真。それがまるで、美しい模様のようにみえる。

    同時に、その裏にグローバル化、大量生産、スウェット工場、環境問題。。。が見え隠れする。

    アーティストが声高に何かをアピールしているのではないけれど、

    写真という真実のレンズを通して、観る者に考えさせる作品ばかりだった。

    カメラというフレームとアングルで、わたしたちが生きている現代を切り取ってみせ、この社会を振り返ることを静かに促していた。

    それらはまるで地球の肌のようだ。

    言葉はこれくらいにしよう。

    展覧会のスケールには及びもしないけれど、作品の向こうに見えてくるものに思いを寄せてみて下さい。

    4/22まで ヘイワード・ギャラリー Hayward Gallery にて

    2018.4.1.

  • 「ハリーポッター:魔法の歴史」展@大英図書館

    「ハリーポッター:賢者の石」が出版されて、20年。

    それを記念して、大英図書館で、「ハリーポッターと魔法の歴史」という展覧会をやっている。

    いつも大人や子供の長蛇の列ができて、すごい人気だ。こんなのこの図書館でみたことがない。

    魔法に関する本って、洋の東西を問わず、長い歴史があるし、奥が深いんだね。

    薬を作ること、錬金術、予言、人の心を読む事、想像上の動物たち、呪い、悪魔、天文学、、、

    魔法って、科学の始まりであり、忌み嫌われるものだったり。

    「賢者の石」だって、実際に、中世のヨーロッパでは錬金術師たちが智恵を絞りあって求めたもの。

    展示室の真ん中に、「賢者の石」の作り方を絵解きした2 メートルぐらいの多彩色の巻物があって、目を見張りました。

    さらに、驚いた事に、ハリーポッターの中で、「賢者の石」を造ったとされる「ニコラス・フラメル」はフランスにいた実在の錬金術師なのです。

    そのフラメルの墓標さえありました。

    「ハリーポッター」の挿絵:不死鳥フェニックス

    うぉ! この想像力! なんか、ヴィーナスの誕生みたいに見えなくもないけど。違うわ。

    何百年も前に書かれた魔法に関する書物やモノが、

    20世紀の作家JKロ−リングスの手書きの原稿とか、「ハリー・ポッター」シリーズの挿絵の原画とかと、隣合わせになっていて、絶妙な組み合わせ。

    作家が、歴史的資料を基にアイデアをだしていたのがよくわかる。

    もう一つ興味深かったのは、ローリングスが書き始めた初期の頃、

    登場人物がやがてどうなって、どこで危ない目にあったり、どういう死に方をしたり、どのように救われるかというプロットをちゃんとつくってた事。

    最後の展示室には、その手書きの表がありました。

    あれだけの世界観を最初から作り上げていたのね。

    作者の頭の中こそが、想像と創造の世界なのね。

    言葉こそが、マジックよね!!!

    2018.2.18

  • バスキアとバンクシー 2018

    80年代、NYのストリートから出発した独学の黒人アーティスト、バスキア。

    21世紀の今、世界中で神出鬼没のストリート・アーティスト、バンクシー。

    ふたりに共通するのはストリート。

    彼らの拠点は、美術館なんかじゃあない。

    美術館という権威の場ではない。

    2017年末から2018年頭、ロンドンのバービカンホールで、『バスキア展』が開催された。

    バービカンホールも美術館。そこで彼の初めての大回顧展が行われた。

    ところが、開催中に美術館側が想定もしなかった事が起こってしまった。

    展覧会がはじまってすぐ、バービカンの建物のすぐそばのストリートで、

    突然、バンクシーによるバスキアへのオマージュ作品が出現したのだ。

    これがそれ。レントゲン写真のような人体は、バスキアの自画像を思わせる。

    その身体検査をする警官たち。

    警官たちが骨まで真剣に検査するって、実にアホらしい。

    そこにバンクシー特有のブラックユーモアがある。

    突き詰めれば、アート作品のセンサーシップにも思いが至る。

    こんな眼と鼻の先で、しかも、建物の中と外で、

    バスキアとバンクシーが同時に立ち現れたことで、

    美術館って何? アートって何? という疑問まで立ち現れる。

    美術館に入るものが「アート」で、そうでないものは「落書き」???

    そんな風に世間がとらえてしまうのも、美術館が権威の衣をまとっているからではないかしら?

    美術館って、たかがか3世紀前に現れた機関にすぎない。

    でも、美術館が出現する、うーんとうーんと昔からアートってあったわけでしょう?

    美術館に入るモノが「アート」だって、誰が決めたわけ?

    ま、実は、バンクシーも美術館で展示されたりしているんだけど。

    彼の場合、この疑問を自覚した、確信犯でもある。

    ラスコーの壁画に描かれた牛たちの絵のように、人類の最初のアートが出現したのは、いわばストリートだったはず。

    それは、指示するもの=シンボル(絵)と、指示されるもの=対象(牛)という相対関係だった。

    思えば、バスキアだって、バンクシーだって、表現の中心にシンボルがある。

    自分のヘアースタイルとしての「王冠」とか、自画像としての「サル」や「ネズミ」とか。

    ラスコーの牛とルーツは同じじゃないか。

    そんなことをグルグルと考えてしまった展覧会とストリートでした。

    2018.1.18

  • ロシアから自由をこめて:イリヤ&エミリア・カバコフ展@テート・モダン

    部屋の外壁に厚手の黒いコートがかかっている。

    部屋の入り口には板がハマっている。

    板の隙間から、中をのぞいてみる。

    4畳ほどの広さ。床は散らばり放題。

    古新聞、汚れた靴、伸び切ったベルト、使いさしのペンキの缶・・・簡易ベットがふたつ。

    壁はポスターで覆い尽くされ、スターリンやレーニンの顔がみえる。

    赤・黒を基調にした、ソ連のプロパガンダ・ポスターだ。

    部屋には誰もいない。さっきまでいた気配はある。

    衝撃的なのは、天井に大きな穴がぽっかり空いていること。

    何かが空から落ちてきた。爆弾か? 隕石か?

    だとしたら、部屋の床に形跡があるはず。でも、奇妙なことに、そんなものもない。

    ふと、何かが宙吊りになっているのが目に入る。

    小さな板のようだ。それが天井の四隅からバネで吊り下げられている。

    あれは一体、何なんだ。

    わたしがみているのは、ロシアのアーティスト、イリヤ・カバコフのインスタレーション作品。

    タイトルは『自分の部屋から宇宙へ飛んだ男』とある。−なんと奇妙な。

    『宇宙から堕ちてきた男』なら、わかるけど。

    展覧会をみながら、少しずつカバコフが生きたソ連時代の人々の生活が垣間見えてきた。

    と、同時にこの作品の意味もつかめてきた。

    ソ連体制下では「表現」は大きな制限を受けた。

    一般の人々の生活も自由なものではなかった。

    都会には政府が造った共同アパートメントが立ち並んでいた。

    そこでは共同風呂や共同キッチンが当たり前で、常に他人の眼にさらされる場だった。

    つまり、コミュニティーが自前の監視システムとして機能していたのだ。

    作品は、抑圧された日常のリアリティーと、

    彼自身の、いや、すべての個人の自由への願望をあらわしているのだろう。

    思えば、この頃はアメリカと競り合って、宇宙船を飛ばしていた時代だった。

    テーマとしては重いけど、

    ここまでまっすぐSF的スケールで迫られると、

    感情を突き抜け、ユーモアさえ感じてしまう。

    展示はゆるやかにカバコフの活動歴を追っていく。

    ソ連が崩壊した後の作品も、かつての体制の記憶が残り、けっして自由ではないことを物語っている。

    最後の展示室では、天使が主なモチーフになっていた。

    不安定なハシゴのてっぺんに、小さな人がいて、両手を伸ばしている。

    天井からは天使がその手に自分の手をさしのべようとしている−そんな、部屋全体を占めるほどの大きな彫刻があれば、

    美術館の中の天使を描いた平面作品や、ビル街に落ちた天使や。。。

    羽をもつ天使は、最初の作品、『自分の部屋から宇宙に飛んだ男』の裏返しなのか。

    そこまで展示をみてきて、

    なるほど、抑圧された生活って、ソ連だけに特有なのではなくて、

    現在の社会にもつながることに気付かされる。

    21世紀のイギリスにも、日本にも。

    あの小さな人は、実は私たちなのかもしれない。

    あの天井に穴を開けたのは、わたしたちの望みなのかもしれない。

    どの国にも体制による、あるいは社会自身による抑圧がある。

    でも、どんな人にも自由への希望がある。

    展示全体が、そう語っているかのようだった。

    2018.1.18

  • 戦後の日本のいえ:バービカン・センター

    ロンドンのバービカン・センターで日本の戦後建築についての展覧会が開催中だ。

    建築展示ならよくあるように、有名な建築家によるアイコニックな近代的な建物の話ではない。建築学的なアプローチでもない。

    ではなくて、普通の民家の建築を通して、戦後の日本の家族や住まい方を追う、とても興味深い展覧会だった。

    特に面白かったのは展示の最初と最後、そして、そのコンビネーションだ。

    展示は、小津安二郎の映画のいくつかのシーンを写す部屋から始まる。

    あの、「タタミに座るアングル」で捉えた家屋のなかだ。

    笠智衆や原節子じゃなくて、屋内に目を注いでみる。

    戦後、物はないけれど、障子のグリッドや縁側、タタミの上の丸いちゃぶ台。どこもこれもシンプルで美しい。

    貧しいからそうなだけなのだろうが、こうしてみると、ミニマリスト的な美を見出してしまう。

    そこに住まう家族は、戦後が生んだ「核家族」だ。

    そんな小さな家に住む家族の関係を、映画は静かに描いていた。

    展示の最後は、現代の建築家、西沢立衛が手がけたある個人、「Mさん」の家のコピーをそっくり展示場内にセットしたもの。

    真四角な白いキューブが間隔をおいて並んでいる。

    ひとつひとつが、寝室だったり、お風呂場だったり。

    建物内に生活空間のすべての部屋が入り込むという常識を打ち破っている。

    ひとつの機能が、ひとつの箱にはいり、それが敷地の中に点在する感じ。箱と箱をつなぐのは狭い庭。

    お風呂に行くのに、居間からいったん庭にでて、その箱に行く。

    箱の中には、住まう人々の興味や生き方が伺えるような本やレコードや家具がおかれている。

    一瞬、ここに住むにはとても不便にみえる。でも、そこには、現在の人々の家族や生き方が反映されている。

    オーナーの「Mさん」は、東京の下町で生まれ育ち、外国にも行ったことがない。

    前の年に、看病していた母を亡くし、たったひとりになった。

    普通なら、その家を売り、土地を離れて、マンションなどでもっとコンパクトに暮らすだろうに、

    そうはしなくて、彼は建築家西沢氏に手紙を書いた。

    建築家からの返事は、「あなたは家が必要なんじゃない、必要なのは小さな村だ。しかも、東京のど真ん中に。」

    Mさんが暮らす様子を描いたビデオが隣に流れているのだが、けっして有名な建築家に注文するようなお金持ちにみえない。

    こんな洒落た家に暮らすにふさわしような、趣味のよいおしゃれな人でもない。

    いつも、Tシャツと短パンだけの、ちょっとシャイな60代の男性だ。

    母を亡くし、Mさんは孤独になった。

    西沢氏がMさんの敷地内に建てた建築のいくつかのボックスは、他の人に貸せるように設計されたもの。

    そこには、コンパクトでいいからこんな家に住みたいと思う若者が暮らすようになった。

    そのボックスのゆるやかに内外につながるデザインのおかげで、まるでご近所さんのように、若い棚子さんたちと会える。

    洗濯場を共有する。醤油を貸し借りする。バーベキューをする。小さなコミュニティーができた。

    その小さな「村」は、かつての東京の下町がもっていたような、家と外が有機的につながる空間なのだ。

    もしMさんが、住み慣れた土地を離れて、コンクリートのマンションに移り住んだら、さらに孤独になった事だろう。

    高齢化が進み、結婚しない人が増えている日本。

    東京には、Mさんのように、ひとりで親を看取って、天涯孤独になる人々が潜在的にたくさんいるに違いない。

    時代とともに、家族の有り様や、人々の生き方が変われば、容れ物のあり方も変わる。

    展示はその事をうまく語っていた。

    イギリスの博物館が、日本をこのように深く掘り下げているのにとても関心したと同時に、

    離れているからこそ、客観的に描けるのかもしれないとも思った。

    この展示場には、日本人というよりは、イギリス人がたくさん見に来ていた。

    地味だけど、とても評判がよい展覧会だという事も、なんだか嬉しかった。

    追記:ところで、バービカン・センターのあるバービカンも戦後にできた巨大な住居コンプレックスだ。ここでやる意味がよくわかる。

    2017.6.12

  • 私たちが生きる時代を撮る:ヴォルフガング=ティルマンス

    時を忘れた。思いもよらず見入ってしまった。

    写真の展示でそんな経験をしたのは、何年ぶりだろう。

    何に魅了されたのか−すぐに答えがみつからなかった。

    でも、そうやって美術館を出た後々まで、

    「なんでわたしは魅せられたわけ?」と、答えを探さないではいられない展覧会が好きだ。

    だから、こうやって拙い言葉でつなげとめようとしている。

    テート・モダンでの「ヴォルフガング=ティルマンス(Wolfgang Tillmans)2017」展。

    よい展覧会はいつも最初の部屋から惹かれてしまう。今回もそうだった。

    ひとつひとつの作品は、

    何気ないホテルの一室・島が浮かぶ星空・赤い車のヘッドライト・アラブの街のマーケットの様子・カニとハエのクローズアップ。。。

    なんの変哲も、なんの主張もない写真にみえる。

    そんな日常的なものがショッキングに新鮮なのは、

    まるで宇宙人がみるように捉えているからだ。

    宇宙人がはじめて地球に降りて、今までみたこともない世界を留めておきたいと思ったら、

    こうなるんじゃないかという写真なのだ。

    わたしたちは、レンズを構える前に、すでに「車」というものを知っている。「カニ」という存在も知っている。

    当たり前すぎて気が付かないのだけど、

    そういう知識が先にあって、その「知識のフレーム」の中で写真を撮る。

    車なら車のように、カニならカニのように。

    でも、ティルマンスは違う。その「アングル」も「切り取り方」も、何が彼の視覚レンズに映るかも。

    もちろん、彼は宇宙人ではない。

    逆にいうと、そのような知識のフレームを取っ払うのは並大抵の事じゃないだろう

    −そこに彼が単なるカメラマンではなく、アーティストである所以がある。

    そうやって撮った写真作品は、マクロで同時にミクロ、知的でかつ感覚的、アブストラクトで写実的。

    そして部屋にあるすべての作品が、被写体も手法も大きさもバラバラなのに不思議に響き合っている。

    写真一点一点で完結するのではなく、部屋全体がひとつのインスタレーションとして作られ、

    そこに詩がある。

    思うに、ひとつだけ、彼が宇宙人から人間に戻るジャンルがあった。

    それは被写体が人間の時だ。

    彼の恋人を撮る時、パーティーのグループを撮る時、街の民衆を撮る時。

    彼は宇宙人から人間に戻って、人の存在の愛おしさやはかなさや強さを表現しようとする。

    でも、その人を被写体にしたものが、アブストラクトな写真や、植物、海面、建築物などと、同じ部屋で結ばれた時は

    また、あの彼独特の詩の世界のひとつとなる。

    ヴォルフガング=ティルマンスは1968年生まれのドイツ人、イギリスの美大をでて、2000年にターナー賞を受賞した。

    現在もロンドンとベルリンを拠点にするアーティストだ。

    日本でも何度か個展が行われたらしい。

    もうひとつ、わたしが魅了された理由は、彼の表現に、わたしたちが生きている「現在」に対しての、アーティスティックな問いかけが込められている事だ。

    イラク戦争−その大義となった「殺戮兵器の存在」をめぐる、「真偽」というそのもの、

    日本海の領海水域問題の緊張をめぐって、その根本にある「領域」という考え方そのもの、ゲイの差別や解放運動をめぐっての「ジェンダー」とは何か、トランプ政権の誕生−ポピュリズムをめぐっての社会の危うさ。

    アートに政治を持ち込むなんて、とお思いだろうか?

    でも、アートは歴史を通して常に政治的でその時の社会を反映していた。

    ダ・ヴィンチもカラバッチオもレンブラントもゴヤもマネもゴッホもピカソも。。。

    彼らは時代や社会から目をそむけはしなかった。

    政治的な主張をしたのではなく、

    他のメディアとは違う視点から、彼らが生きた「時代/世界」をみせつつ、

    人々にしっかりと自分で考えるよう、誘ってくれた。

    ヴォルフガング=ティルマンスもまた、

    今回の展覧会を通して、

    今わたしたちが生きている社会を、一歩ひいた位置から違う「アングル」「切り取り方」「レンズ」で問い直してくれる。

    2017.5.31

  • 裸体のキリスト像:ミケランジェロ展@ナショナル・ギャラリー

    ロンドンのナショナル・ギャラリーで「ミケランジェロとセバスティアーノ」展が開催中だ。

    展覧会のテーマは、この二人の25年に及ぶ友情と彼らの作品がいかに影響し合ったかを追うもの。

    ミケランジェロはフィレンチェのアーティスト、セバスティアーノはベネティアの画家である。

    前者は構造や身体への深い理解を特徴とするのに対し、後者はむしろ色彩をはじめまず作品全体の感覚的な美を追求した。

    二人とも、宗教の総本山・芸術の都、裕福なパトロンたちがおり、ラファエロなどの競争相手がたくさんいたローマを訪れて、

    互いにないものを補い合い、ともに作品を高めていった−その様子が展示の順をおって確かに伺えた。

    作品と同時に彼らの手紙のやりとりをみながら

    それぞれの影響や生き生きとした制作過程をおっていくのは興味深いことだった。

    だが、そんな展覧会のテーマよりも、わたしが心を奪われたのは、圧倒的に3点のミケランジェロの彫刻作品だった。

    ひとつは、ヴァチカンからやってきたあの「ピエタ」−若きミケランジェロが名声を獲得した有名な像(コピーだけど)である。

    息子の遺体を自分の膝に乗せ、放心したようにうつむく母、マリア。

    その深い悲しみとともに母としての大きさと優美さが、命の炎がきえたキリストの肉体と対比して、見事なまでに表現されている。

    あとふたつは、わたしが今回はじめてその存在を知った像だ。

    ひとつ前にある展示室に入った時から光を放ち、わたしの目を奪った。

    そこに十字架がなければ、その顔が面長で、髪が長く髭が生えていなければ、

    ギリシアの神像かあるいは、まさに、ミケランジェロの名作「ダヴィデ」像と見まごうばかり。

    肩幅は広く、胸は厚く、引き締まった腹、力強く優美な手足。

    存在感があり、エネルギーに満ち溢れた、全裸の男性像である。

    すっかりその美しさに心を奪われて、大事な事に気がつくのがその後だった。

    そういえば、これ「キリスト」だ!

    一糸もまとわないで、しかも、こんなに筋肉隆々のキリストなんか見たことがない。

    ある種のセクシャリティーすら感じてしまう。

    わたしですらショックなので、当時のローマの人からしたら相当なショックだろう。

    むしろ、スキャンダルをおこしたのではないかしら?

    解説によると、ルネサンスの時代にはキリストに対するそういう革新的・理性的な考え方をする人々がでていたようだ。

    ミケランジェロにとって、復活したキリストとは、あのピエタ像のように、

    母の膝に横たわる血の気のないゴツゴツとした身体とは全く別物の、

    エネルギーに満ち満ちた存在感ある肉体として描く方が、不死となった全霊の存在を具現化しえるものと考えたに違いない。

    足元には死を象徴する墓。

    その死に打ち勝ち、踏みつけ、地面からたくましく立ち上がったキリストの、まあカッコイイこと。

    優美な体の線と、まっすぐな十字架が見事な調和をとっている。

    そこには、古代ギリシアの神々が理想的な人間の肉体をもって表現された事と相通じるものがある。

    そう、ミケランジェロはまさにルネサンスの人、

    キリスト教の、「表現」に対する長い抑圧の後、2千年も昔のギリシア芸術の高さを再発見したルネサンス(再生)時代の、新しい表現者なのだ。

    正直いうと、それでも、やはりやせ細ったキリストの方に心寄せられる私だけど、

    ミケランジェロにこんな作品があるのを知っただけでも、この展覧会を見た甲斐があったというもの。

    なにより感動的に美しかった。

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    「Michelancelo & Sebastiano」展

    2017.5.17