投稿者: Opekepen

  • ザ・ペインター:マルレーネ・デュマス展@Tate Modern

    ひとりの裸の幼女が立っている-右の手は濃い紫に、左手は赤く染めて。膨らんだ腹は未熟な体内が透けて出るかのような柔らかな青で、四頭身の白く広がった額とコントラストをつくっている。

    額の下のくぼみには、攻撃的で同時におびえた眼が二つ。

    あなたをまっすぐにみている。

    ふっくらした頬に唇をぎゅっと結び、弱弱しい膝をがくがくさせながら、彼女は、どこかわからない、どこでもあるような、白い空間に立っている。

    まるで、はじめて人を殺した時の犯罪者のように。

    タイトルは「The Painter」。

    南アフリカ出身の女性画家、マルレーネ・デュマスの2メートル長の油彩作品である。

    モデルはデュマスの娘であり、あるいは彼女自身なのかもしれない。

    そこには、母と娘の関係や見る者と見られる者の関係が浮き彫りになる。

    テートモダンで開催中の「マルレーネ・デュマス」展は、14の展示室を使って、

    彼女の60年のキャリアーを年代順に並べた大掛かりな展覧会だ。

    独特の淡いタッチなのに、捉えた人の深層がにじみ出る力強い作品が並んでいる。

    それは時にとても親密な相手であったり、歴史的な、社会的な人物だったりする。例えば、

    ナオミ・キャンベルやダイアナ妃、オサマ・ビン・ラディンといったメディアに騒がれた人々、

    パレスチナ紛争で殺害されたある女性の死顔、

    フランス革命でマラーを殺害した女性の頭蓋骨、

    あるいは、イエス・キリストやマグダラのマリアなど伝統的な西洋絵画の主題になった人々。

    それがだれであろうと、彼らひとりひとりの想いや彼らが背負った人生に親密に寄り添って、

    それを共通の人間性として表現しようとしているのだ。

    展覧会のラベルは、すべてデュマスの言葉が添えられている。

    そのひとつひとつは、彼女の絵のようにポエティックである。

    「The Painter」に添えられたデュマスの言葉を書き加えておこう。

    絵画は、歴史的に女性的なものとしてみられてきた。

    だけど画家は男で、女はモデルだった。

    ここでは、わたしの娘が主役を演じている。

    彼女は自分を描く。

    モデルが画家になる。

    彼女が彼女自身を創造する。

    彼女は、あなたを喜ばすためにいるのではない。

    自分を喜ばせているのだ。

    問われるのは、

    「彼女はだれか?」ではなく、

    「あなたはだれなのか?」

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    2015/5/16

  • あの後、アーティストは何もいわなかった:Chim↑Pomの場合

    「2011年の震災の後、アーティストはほとんど何も作らなかった。でも、何かしなくっちゃ。でないと、アーティストは何も表現しなかったと将来に認めさせる事になるから」

    2015年初夏、日本の若手アーティスト集団Chim↑Pomが、展覧会の準備のためにロンドンにきていた。

    冒頭は、その記念トークでの、メンバーのひとり卯城の発言だ。

    確かに、東北大震災、それに続くフクシマの惨事がおこった時、

    アーティストたちは頭が真っ白になって、「アーティストとして、いったい自分に何ができるのか」と身がすくんだという。

    たくさんの予定された作品展が、刺 激が強すぎるからといって、キャンセルにもなった。

    せいぜいあるとしたら、チャリティー目的の心を和らげるような小品の展覧会ぐらいだったのだろう。

    そんななか、Chim↑Pomはすぐさま行動をおこした。

    まずは、渋谷駅にある岡本太郎の壁画「明日への神話」の欠けている部分(最初のセッティング状況ではじめから不定形だった)に、

    岡本の作風をまねて、福島第一原発が爆発した絵をはめこんだ。

    許可を得ずに公共の場でやったゲリラ作戦である。

    だが、コンテキストをよく考えた、かつ時機を得た表現活動だった。

    なぜなら、岡本の絵も、第五福竜丸の被爆をテーマにしたものだからだ。

    確かに過激ではあるけれど、

    口をつぐんだまま町ゆく人々に、麻痺してしまった社会に、

    その過去と今起こった現実を結びつけ、はっとさせたという意味では、

    大変パワフルな行為だったと思う。

    過去のダークな社会的出来事、みんなが素通りしてしまう現実に対して鋭く警告をはなつという点では、彼らには前歴がある。

    2008年、広島の空、飛行機雲で「ピカッ」の字を描いて、社会を驚かせた。

    主要新聞のトップ記事にもなったから、覚えがあるのではないだろうか。

    あのときは、市民を「不快な気分」にさせたと非難の声もあがったが、

    彼らとしてはそんなネガティヴな反応がおこることは、最初から折り込みすみだったに違いない。

    そんなことより、鋭い切り口で社会を「騒がせる」事が重要だった。

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    フクシマの非難地区にも立ち入った。

    6人のメンバーが白い防護服をまとって、立ち入り禁止区域にはいりこみ、

    白旗と日本の国旗と原爆のマークの旗をたてて、ビデオ作品をつくった。

    ロンドンの会場から、「あなたたちの行為は、原発反対という政治活動なのか?それともアートなのか?」と質問があった。

    「反対とか賛成とかいっているのではないんです。

    わたしたちはあくまでもアーティストなので、社会におこった出来事に反応しつつ、

    より抽象的に問いかけているだけです」と、集団で紅一点のエリイ。

    つっけんどんな感じだった。

    そいう問いには、答え慣れているんだろう。

    「解釈するのはあなたたちだから」と、多くは語らないアーティストをちゃんと演じている。

    彼らの作品はそれがビデオであれ、パフォーマンスであれ、正直いうとわたしの好みではない。

    あまりに直裁的で、そういう行為がおこなわれたと記事で読めば、なるほどと納得できてしまい、

    で、もうそれで充分で、彼らの作品をじかにみてみたいとは思わない。

    だけれど、日本社会が、目にみえない拘束社会になってきているのなら、

    彼らのような若手表現者たちが、風穴をあけてくれるのは注目に値する。

    放射能汚染が目にみえないところで、フクシマに限らず日本を覆っているのなら、

    その現実に「想像力」をもって立ち向かわなければならない事を

    気付かせてくれるという意味では、エールを送りたい。

    最後に一つ、わたしがトークで質問し損なった事。

    Chim↑Pomのなかでエリイという存在は、ジェンダー的な観点から、どう位置づけられるのだろう。

    集団として、どう考えているのだろう。

    彼女は常に女性性を全面にだしているし、周囲はそれを強調しているようにみえる。

    彼らの名前が端的に表しているように。

    ヨーロッパのアーティストだったら、きっと説明を求められるに違いない。

    Chim↑Pomの場合、とても曖昧な感じがする。

    ひょっとしたら、それも日本社会の特徴なのだろうか?

    「勝手に解釈して」で、すまされるのだろうか?

    2015/5/15

  • 1000枚のモネを売った男

    日本の人は印象派好きだ。彼らの陽気で、光にみちた明快な絵は、確かにわたしたちの眼を楽しませてくれる。だけれど、そのスタイルが誕生した頃、社会からはたいへんな罵声を浴びせられた事、「印象」という名だって、実は、こいつらの絵は、「たかが印象でしかない」という、当時の批評家の皮肉から生まれた事を知ると、なぜ、こんな素敵な絵が?と首をかしげる方が多い。

    絵に限らず、社会の評価は常に変化するものだ。

    その意味でも、伝統的な美術のあり方を塗り変えた、若手アーティストの挑戦は賞賛するに余りある。

    だが、歴史をかえたのは、ステージに立つ画家だけの功業ではない。

    その舞台裏にも、アーティストたちを支え、市場を動かし、新しい鑑賞をお膳立てする、果敢な男がいた。

    その名はPaul Durand-Ruel 。パリの画商である。

    印象派の展覧会というと、そのアーティストや作品自体に焦点をあてるのが王道だが、

    ロンドンのナショナルギャラリーでの展覧会「印象派を創造する」は、その裏舞台に焦点をあてた興味深い内容だった。

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    まず、画商デュラン-ルエルのドメスティックな側面から、展覧会ははじまる。

    ルノワールが描いたデュラン-ルエルの子供たちの絵、モネが描いた彼の家のドア・・・

    そこには、彼の居間の写真があり、その空間を彷彿とさせ、

    画家と理解者の暖かい人間関係を感じさせる展示になっている。

    次に、仕事に対する思い。

    まだ20代、父から仕事を受け継いだ時、実はあまりやる気が無かったのだが、

    ミレーや、ドラクロワ、ルソーの絵をみてから、この仕事に生きがいを感じるようになったという。

    彼の情熱に火をつけたのは、マネの絵だった。

    1860年代当時、マネの作品は社会から非難を浴びていた。

    だが、やがて印象派とよばれることになる若手画家たちにとっては、目指すべき憧れだった。印象派が生まれる前夜である。

    そのマネの絵を何枚も、デュラン-ルエルは買い集めた。常識外れの博打だ。

    やがて、マネやピサロに出会う。

    それも普仏戦争を避けて亡命していたロンドンで。

    彼はすぐに射程を広げ、その若い画家たちの制作活動を、経済的に精神的にサポートした。

    だが売れなかった。破綻しかけたことも1度や2度ではない。

    その状況をかえたのはアメリカだ。

    アメリカは当時急速に経済力を伸ばしていた。

    価値感も、ヨーロッパの古い伝統とは一線を画す、新しいものを求めていた。

    その市場に印象派のアーティストたちの作風はぴったりあったのである。

    今回の展覧会は、1905年、デュラン-ルエルが企画したロンドンでの展覧会の再現で終わる。

    考えてみれば、当時のナショナルギャラリーは、アカデミーオブアーツの本拠地であり、

    そのアカデミーは、海を渡ってやってきた印象派をコケおろした組織だった。

    翻って、今日、当のギャラリーに集まってくる観客たちのほとんどは印象派ファンだ。

    社会は変わる。

    わたしたち個人の価値感も変わる。

    なんだか、自分や社会を鏡でみるような展覧会だった。

    ある意味、ナショナルギャラリーそのものが、自分の過去を鏡に映す機会だともいえる。

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    追記:この展覧会では、個人蔵の作品がたくさんあり、決して普段はみられない絵が並んでいる。

    それもこの展覧会のプラス面である。

  • ロンドンの迷宮:サー・ジョン・ソーンズ博物館

    ロンドンはホルボーン地区の裏手に、とても魅力的なミュージアムが隠れている。「サー・ジョン・ソーンズ博物館」という。

    リンカンズインフィールドという、NYのセントラルパークのモデルになったといわれる大きな公園に沿って、ジョージア様式のタウンハウスが並んでいるが、その一角にこの博物館がある。

    狭い間口で、看板がなければうっかり見落としてしまうだろう。

    玄関から入って、まず迎えてくれるのは、典型的な18世紀の応接間だ。

    赤い絨毯、大きな窓、壁一面の本棚、立派な机やエレガントな椅子、鏡や肖像画の数々・・・

    そこまでは、中流階級のジェントルマンの家のように見てとれる。

    しかし、そこから一歩、家の奥に入っていくと、すぐに、ここが普通の生活空間とは全く違う事に気付き、驚愕するだろう。

    狭い通路の両壁には、隙間がないほど、様々な物で覆い尽くされている。

    どれもこれも、古い建造物の一部とか、彫刻とか、遺跡の破片とか・・・

    美術品とも考古学資料ともいえる物たち。

    素材も、石、ブロンズ、テラコッタ、ガラス、石膏、花瓶、ステンドグラス、化石やミイラ、宝石とさまざまだ。

    めくるめく迷宮のような空間、まさにある種の小さな宇宙だ。

    (copy right) Sir John Soans Museum
    (copy right) Sir John Soans Museum
    (copy right) Sir John Soans Museum
    (copy right) Sir John Soans Museum

    でも、断じて、アミューズメントパークではない。

    なぜなら、ここは、ある家族が住み、価値あるコレクションを家中に飾って、

    生活の場であると同時に個人ミュージアムとしても機能した空間だからだ。

    その主であり自宅を建築した人こそが、18世紀の著名な建築家、サー・ジョン・ソーンである。

    この世紀は、古代ギリシア・古代ローマの文化を賛美した「新古典主義」の時代で、

    イギリスの名家の子息や芸術家たちは、その空気を吸おうと、

    こぞってイタリアやギリシアあるいはエジプトに出かけていった。

    ソーンもその一人で、旅行を通して夥しい数のコレクションを築きあげ、

    自分の学生や弟子たちに学ばせようと、この自宅兼ミュージアムを開放した。

    亡くなる時には、ある条件をつけて、コレクションを家ごと国に寄贈した。

    その条件とは、彼が生きていた時のままに保持し公開することであった。

    言い換えれば、この迷宮のような空間は、18世紀当時の「世界観」をそのまま残しているのである。

    それがこのミュージアムのもうひとつの魅力だろう。

    何の脈略もなく並べているようにみえるが、その基礎には当時の考え方が横たわっている。

    それが何であるかは、ここでは触れないことにしよう。

    それよりもここを訪ねるみなさんにお伝えしたい小さなヒントがある。

    絶対に見逃してはいけない箇所、「ピクチャーギャラリー」と呼ばれる部屋だ。

    もし、その小さな部屋の壁が閉じていたら、そばの館員に、

    「壁の中にある絵も見せてほしい」と、頼むことを決して忘れないように。

    一見何の変哲もない壁が、実は、何重にも折りたたまれていて、

    それを開けると、不思議や、別の壁や空間が現れて、その奥に隠れていた絵画や彫刻が現れる。

    なんとそこには、ソーンの親友だった英国を代表する風景画家ターナーの作品や、

    ホガースの有名な作品が含まれているのである。

    もうひとつ。

    毎月第一火曜日には、夜間開館されているが、

    その日は、電気照明が一切使われず、すべてキャンドルの光で灯される。

    まさに、ソーンが生きていた時代の夜の様子を再現するのである。

    それはそれは、とても幻想的な空間になる。

    そのイベントにも、ソーンの遺言に忠実な心意気がうかがえる。

    もし、あなたがロンドンの大きなミュージアムには一通りいかれたなら、

    今度は、ぜひ、この魅力的なミュージアムを訪れてほしい。

  • イギリスのミュージアムにある日本のモノ

    イギリスには、日本のモノ(美術・工芸・その他)をもっているミュージアムが何館ぐらいあると思われるでしょうか?実に150を超えるといいます。

    その数をはじめ聞いた時、少なからず驚きました。さすがミュージアム大国、いや大帝国だった名残と言ったほうがよいのかも。

    だけれど、日本を専門とする学芸員がいるのは、大英博物館やヴィクトリア&アルバートミュージアム、スコットランド国立博物館など、両手でおさまるくらいだといいます。

    つまり、ほとんどのミュージアムは、ほかの地域や分野を専門とする学芸員が面倒をみているってわけ。

    いったい、イギリスにおける日本コレクションの実態はどうなっているのでしょう?

    少し前ですが、大学共同利用機関法人・人間文化研究機構 (本拠:国立歴史民俗博物館)から、

    その実態調査のお手伝いをする依頼をうけました。

    具体的にした仕事内容(ディレクターの個人の仕事として)は、

    日本コレクションをもつミュージアムのウェブサイトを調べ、

    どのくらい日本コレクションが紹介されているか、どのような紹介のされ方をしているのか等の調査と、

    担当学芸員に直接アンケートを依頼し、

    オンライン構築上に直面している問題点とか、日本からどのような支援を得られれば有効かなどを聞きとり、

    それを分析する事でした。

    その結果をここでお話するつもりはないけれど、

    (ご興味がある方は、ページ下にある報告書を参考にしてください。)

    その調査の一貫で出会ったある日本展示室の様子や、考えたことを記しておきたいと思います。

    イギリスという国が日本をどうみているのかー

    その一辺がわかって、後からでも興味をもって読んでいただけるのでは?と思うからです。

    ダラムは、イングランドの北部にある、ユネスコ世界遺産にも指定された歴史ある美しい町です。

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    ダラムには、オックスフォード、ケンブリッジに続く歴史ある大学があります。

    ハリーポッターで一躍有名になったダラム大聖堂もあります。

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    訪れたダラム大学のミュージアムは、町の外れにありました。

    大学のミュージアムっていうと、日本の大学ミュージアムのような、堅苦しいイメージがありますが、

    このミュージアムは、家族向けをメインとした、とても親しみやすいものでした。

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    展示室の全体はこんな感じ。韓国と隣り合わせにあります。

    右手に仏像とか甲冑とかがみえますね。

    もう、「日本といえば○○○」、という代表格です。

    手前は、子供たち用の小さな机と椅子。

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    こんな日本風のリラックスするワークショップスペースもあります。

    襖絵をみながら、サムライたちの物語を読み解くのでしょーか。

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    このへんも、典型的な日本を代表するモノたちです。

    でも、日本で使われたモノではなくて、ヨーロッパへの輸出用の磁器です。

    鎖国されていても、日本とヨーロッパのあいだに交流があったことを伝えているのですね。

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    古いものばかりではなくて、現代の工芸家の作品も隣に並んでいます。

    そうかと思えば、着物のとなりにあるのは、かわいいファッション。

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    かわいいファッションの下には、セーラームーン。

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    そいでもって、リラっクマ温泉グッズまで!

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    日本って、面白い国ですね~。

    富士芸者のステレオタイプではなくて、こういう新しい面を紹介してくれているのは、なんだか嬉しい。

    まさに今の日本の一面なんだし。

    イギリスの若者も漫画やサブカルチャーから日本に親しんでいるのなら、

    それをとっかかりにして、日本にますます興味をもってくれるし。

    そのことをミュージアムはわかっているのですね。

    でも、このミュージアムの学芸員も日本の専門ではありません。

    特別展示では、50年代から70年代の日本の映画ポスターの展覧会とかをしていました。

    彼女は、なにもないところから、苦労して調査したんだと話してくれました。

    こういうがんばってくれている学芸員がいる一方で、

    残念ながら、もっているコレクションの価値が充分わからず、

    昨今のキューキューの経済事情で、コレクションを売り飛ばさざるを得ない館も、実際でてきているようです。

    日本側がなんとか手をかしてあげて、

    イギリスのミュージアムで日本の文化をもっと活き活きと紹介してくれて、

    世界のひとびとが日本のことをもっとわかってくれたら、と素直に思います。

    アートローグは、

    日本とイギリス(ヨーロッパ)の文化コーディネートのお手伝いもしていますので、

    何かお役に立てそうなことがあれば、是非ご連絡下さい。

    ・・・と、今回は、宣伝で締めくくってしまいました。

    ちなみに、冒頭に書いた報告書は以下になります。


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    『英国とアイルランドの日本関連コレクションの現状とデータベース化に係る調査報告書』

    大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 編

    執筆者 三木美裕

    データ集積/分析 吉荒夕記

    監修  国立歴史民俗博物館 館長 久留島 浩

  • ヒロシマ・ドレスデン・ナガサキ

    テートモダンで、「ヒロシマ・ドレスデン・ナガサキ」というタイトルの写真展を観た。都市の名前をみれば、戦争を描いているのだろうと検討がつく。

    そのとおりである。ただし三都市だけではない。

    およそ写真というものが生まれて以来、地球上のあらゆるところでおきた戦争をテーマにしている。

    古くは、アメリカ南北戦争やクリミア戦争から、近年のイラクやアフガニスタンでの戦争まで。

    戦争直後の様子だけではなく、時間を経たあとにも残る傷をも追いかけている。

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    構成も面白い。

    よくあるように各戦争毎に、スペースをわけるのではなく、

    紛争直後、1週間後、数ヶ月後、1年後、3年後、10年後・・・99年後という、

    出来事がおこってからの時間の距離によって、展示を構成している。

    だからひとつの展示室のなかに、第一次世界大戦やボスニア戦争、湾岸戦争などが隣り合わせに並ぶのだ。

    紛争直後をテーマとした展示室での、非常にショッキングなこの世のものとは思えない映像から始まり、

    紛争に巻き込まれた被害者の生々しい傷や記憶、

    やがて、修復された表の顔の裏に、今も亡霊のようにいやされぬ土地や集団としての記憶へと展開していく。

    たとえば、見渡す限り広がる土地に、一本の道が走っている、ただそれだけの風景が、その荒涼さゆえに力をもって訴えてくる。

    あるいは、当時の証言を集めたアーカイヴの冷たい書棚が並ぶ図書室 - これまで開かれることのなかった記録-白黒の写真はその沈黙の深さを物語る。

    忘れたいものを忘れてなるものかと、つきさしてくるカメラの目だ。

    もうひとつ興味深かったのは、このタイトルにも現れている事である。

    イギリスにとって、タイトルの三都市は敵地であった。

    ヒロシマやナガサキは、間接的であったし、人道的な内省も加わるから、同列に並べてはいけないのかもしれない。

    だが、ドレスデンはちがう。

    まさに英軍が先導して、徹底的に破壊した敵の都市、

    しかも軍事的な施設があるわけでもなく、ふつうの人々が住む、当時美しいことで有名だった町である。

    その被害の大きさをとらえる冷静なまなざしは、加害者自身であり、この展示をみる多くのイギリス人につきつけてくる。

    それは、大多数の人にとって、直視するに堪えない事実に違いない。

    戦争を扱う表象で難しいのは、この加害者としての自らをみる視点ではないだろうか。

    ほかにも、これまでにはとりあげられなかった視点からの紛争が語られる。

    たとえば、強烈だったのは、第一次大戦で、同盟国軍からの脱走兵が同胞の兵士によって処刑された史実だ。

    処刑が行われた場所で、処刑が行われた時期やその時間を選んで、

    その風景、その空気をとらえようとする。

    とても重々しくて避けたい過去を、人間の脳にかわって写真というメデイアが淡々と記憶していくのである。

    逆に、それが行われて99年経った今だからこそ、浮かびあがらすことができた事実であり、

    そのことを埋もれさせてはいけないと、後世のカメラマンが誠実にその過去に向かったからこそ、印画紙に刻むことができた作品だ。

    この展覧会は、第二次世界大戦終結の70周年を記念する、実に挑戦的なテーマだった。

    この70という数字には、ふつうのメモリアル以上の意味あいがある。

    それは、自らの体験をもった最後の人々が、まだ直接的な記憶を語ることができる数字だ。

    普通はドキュメンタリーというジャンルにはいる対象を、現代美術の美術館が挑戦したという意味でも、興味深い展覧会だった。

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    (基礎情報)

    Tate Modern

    「Hiroshima Dresden Nagasaki」

  • ベルリンの壁からワールドカップ優勝まで

    大英博物館で開催中の「ドイツ―ある国家の記憶」という展覧会の入り口には、殴り書きで「Down」と書かれた看板がある。

    近づけば、それが1989年に崩壊したベルリンの壁の一部であるとわかる。

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    あれは、ドイツ人だけではなく、20世紀末の人類が共有した記憶だ。

    40年にわたって分断されたドイツが再びひとつになった、現代史からみても劇的な瞬間だった。

    それがあまりに衝撃的だったため、わたしたちの多くは、戦前のドイツはずーっとひとつの統一国家だったという印象をもっているかもしれない。

    ところが、この展覧会はまず最初に、一国家としてのドイツも、実は浅い歴史であることを教えてくれる。

    なかでも面白かったのは、17世紀頃のコインをヨーロッパ地図の上に並べた展示だ。

    イギリスでは王の横顔が刻まれたコインが一つであるのに対し、ドイツ語圏では、地域によって異なるコインが20以上も存在した。

    つまり、ドイツという国なんてなかったのである。

    ひとつの国民としてのアイデンティティーが庶民レベルで普及したのは、

    ナポレオンとの戦争、フランスによる支配、そして開放という一連の歴史を通してだ。

    実に19世紀の半ばである。

    展示はそのことを、当時発行されたイラストや記念品や建築物や、ワーグナーのオペラなどを通して、物語る。

    わたしにとっての目玉は、マーティン・ルターの手書きの序文がはいった聖書。

    プロテスタントの考え方を広めた彼は、ドイツの人々にドイツ語でかかれた聖書をつくった。

    それをさらに押し広げたのが、グーテンベルクの印刷技術だ。ベストセラー中のベストセラーである。

    ドイツ語という言葉が、どんなに人々を結びつけた事だろう。

    展示は、ふたつの大戦、そして連合国によるふたつの分裂へと、めくるめく運命を紐解いていく。

    そして、展示のプロローグにあったベルリンの壁の崩壊に戻り、

    最後は2004年ワールドカップのホスト国になり、その記念すべき大会で、ひとつのドイツとして優勝したことで終わる。

    現ドイツの政治的複雑さ、文化・社会レベルの多様性を背景にしながら、

    世界とのかかわりのなかで、いかに国家が樹立し、崩壊し、また、統一されたのかが、よく理解できる展覧会だった。

    だけれど、何か決定的に足りない、と思った。

    それは、現代のグローバリズムにおける、ゆれる国民性を描いていない事だ。

    ここ数十年の世界的な位置をめぐるうねリ。

    たとえば、EU連合とドイツの立ち位置、膨大な移民の流入、それによって日常的に生じている軋轢や反乱。

    かつ、それに拮抗するナショナリズムの台頭。

    あるいは市場経済的・文化的なグローバリゼーションとドイツの関わりについて、この展示はほとんど語らない。

    現在、同じようなグローバル化の波にさらされている西洋人が共有するはずの、そのナショナル・アイデンティテイー危機に対して、

    現代のドイツ人たちはどのような反応をおこしているのか、

    今日の「国家」を語るための、その大事な部分がなぜかすこんとおちてしまっている。

    その弱点を皮肉るかのように、最後の展示はつぎのように締めくくられていた。

    現ドイツ連邦国会議事堂は、ベルリンのブランデンブルク門のすぐわきにある建物で、19世紀末に建てられたのだが、

    ベルリンが再び統一ドイツの首都となった時、

    その建物はすでに廃墟と化していたという。

    それが再建され、その頂上にガラス張りのドームが加わった。

    再生ドイツの象徴といえよう。

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    Wikipedia より

    だが、そのドームを建てたのは、ドイツの建築家ではなく、

    イギリスを代表する建築家のノーマン・フォスター卿なのである。

    展示会場をでると、再び大英博物館の中央部分のグレートコートに導かれるのだが、

    わたしたちを待っているのは、まさに、そのノーマン・フォスターによるガラスの丸天井だ。

    2015/1/18

  • コンスタブルの雲がたなびく美術館

    彼の故郷に対する愛をこめたまなざしは、

    同国人をして、コンスタブルの「風景画」はイギリスの「肖像画」であるとまでいわしめた。

    今も、コンスタブルの生まれ育ったイースト・バーコルドへいくと、

    1800年代はじめに、彼が描いたとおりの風景が、かわらずわたしたちを迎えてくれる。

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    しかし、今回のヴィクトリア&アルバート美術館での特別展は、

    そうした従来の見方を一度留保して、違う角度から光を当てようとした興味深い展示だった。

    最初の展示室からいきなり、新しいコンスタブル像が始まる。

    そこでは、この画家が残した手紙や周囲の人の証言をもとに、彼がいかに先輩の巨匠たちの影響を受け、

    模倣し、自らの表現を模索していったのか、

    緻密な調査をもとにして、影響を受けた画家たちの作品と一緒に並べている。

    例えば、クロード・ロラン、ニコラ・プッサン、ゲインズボロ、ルーベンス・・・。

     ルーベンスの手による星降る夜の風景を描いたミステリアスな作品の横には、

    それに影響を受けたであろうコンスタブル20代の作品がある。

    まだ駆け出しのこのイギリスの若い画家は、自分の寝室にそのルーベンス作のコピーをかけていたのだとか。

    こうしたアプローチは、「独学の画家」というコンスタブル像が、偏ったものではないかと問いかけてくる。

    展覧会のもうひとつの魅力は彼のスケッチとそれをもとにした完成作を並列していたことだ。

    スケッチといっても、想像されるような白黒の素描ではなく、

    少ない色数でおおまかに描いたものを指す。

    コンスタブルの頃は、まだチューブの「絵具」が開発されていなかった。

    つまり、画家が戸外で大きな作品を制作する事は、物理的に困難だったのである。

    作品に戸外の新鮮さをもたせるために、コンスタブルが工夫したことは、

    完成作と同じ大きさのキャンバスを現場に持ちこんで、少ない色数でスケッチを描いたことだ。

    そこには二つの目的があっただろう。

    ひとつは、大きな画布を相手に、作品の構成を決めること。

    小さなものならよいが、大作は画面構成が重要だ。

    風景をどうきるか、それを実際の様子をみながら決めなくてはいけない。

    もう一つは、現場の光や風を新鮮に表現する事である。

    夏の日に描いたスケッチを、冬のロンドンのアトリエに持ちこんで、

    あの風を、土の湿り気を、脳裏に思い起こしながら、

    その記憶を指先に移して、大作に丹念に落とし込んでいったのである。

    今回の展覧会では、違う美術館が所蔵する原寸大のスケッチと完成作が三組も隣り合わせにあった。

    わたしたちは、それらをセットでみることで、

    戸外の現場での画家のエネルギーや自然の動きを感じたり、

    同時に、一枚の美術作品として仕上げる時の画家としての細心な心配りをみることができる。

    こういう発見は、特別展示ならではの貴重な経験に違いない。

    一人の画家をテーマにした、一見、オーソドックスな展示だが、

    従来の社会通説に風穴を開け、画家に対する理解を広めた革新的な展覧会だった。

    お宝作品をぽんと置いただけの人気取りではなく、キューレターのプロフェッショナルな心意気を感じる展覧会だった。

    満足した気分にひたりながら、美術館の中庭にでると、

    コンスタブルの雲がなびいていた。

    2015/1/7

  • 人生へのオマージュ

    なんという手だろう。皮膚は干からびて、骨に貼り付いている。透けて見える骨格は、この老婆の人生が、決してスムーズではなかった事、一人の人として、ある種の癖を築いてきた事を物語るかのように、膠着し、屈折している。

    それでも、そのグレイの肌に、ほんのり赤みが差し、この人の体温や、息づかいを感じる。

    まるまった小さな体に比べ、大きく描かれた両手も彼女の人生の大きさを表している。

    老婆は、その手からはみだすような大きな聖書を抱えている。

    キャンパス全体が暗く、彼女の頭も黒い頭巾ですっぽり包まれているのだが、その聖書からは神々しい光が静かに溢れ、聖書に目を落とす老婆の顔を、まるでスポットライトのように下から照らしている。

    その顔は、額に皺が深くより、頬の肉はだぶついて、

    手と同じように、彼女の年齢を刻んでいるのだけれど、

    目元は少女のようにやわらかく、口もとはゆるやかに開き、

    周囲の喧騒から離れ、ただただ自分の世界に浸っているかのようだ。

    いや、この老いた女性は、彼女自身の人生の喧騒からも超越した時間のなかにいるのかもしれない。

    ここには、聖書の世界に溶け込んでいる無時間と、ひとりの人として生きられた人生の長さの対比がある。

    ロンドン・ナショナル・ギャラリーで開催中の「レンブラント・後期」展には、

    この画家が得意としたたくさんの肖像画が並んでいた。

    レンブラントの肖像画はどれも、モデルの顔に似せることとか、そのステータスや人柄に迫ること、以上の何かがある。

    それは、その人の人生そのものを、レンブラント独特の深い色使いの中でオマージュすることだ。

    画家自身にとって、それをもっとも追求したのが、自画像の一群ではないだろうか。

    若い頃の成功の後、社会は彼が切り拓いていく斬新な表現を認めず、

    注文は激減し、破産し、貧困に陥り、家族がひとりひとり他界して、たった一人残されてしまった、

    それでも、自分の目指す表現を信じつつ、そんな自分の生を謳歌するのだ。

    わたしには、レンブラントの肖像画には、「絵」というメディアには収まりきらない、

    もっと深遠な人間の生に対するまなざしがあるように思えてならない。

    rembrant

    2015/1/16

  • チョコレートと大英博物館

    さっぶい日には、ミルクチョコレートが恋しくなりますよね。

    そのミルクチョコレート、イギリスには日本ではみかけない形状のがあるんです。

    ほら、粉状でなくて、こんなでかい粒の。

    大匙一杯ぐらいを火にかけながら、ぐるぐるミルクで溶かす

    ―それだけで、とても滑らかなミルクチョコレートのできあがり!

    DSCN0140

    このパッケージもなかなかすてきでしょ?

    そこに描かれたモデル、バッハみたいな人は、

    サー・ハンス・スローンといって、

    実は、あの大英博物館の設立に大きく貢献した有名なコレクターなんです。

    hans slone

    なぜにして、そんな人がミルクチョコレートのパッケージになっているのであるか?

    スローンは王室に仕える有名な医者だったのですが、 ある時、貴族の船団に乗って、ジャマイカに行く機会を得ました。

    ジャマイカにはヨーロッパではみかけない植物がわんさかあったので、収集家スローンは嬉々として集めまくったに違いありません。

    彼は、現地の人が体によいと不思議なものを好んで飲んでいるのをみて自分でも飲んでみました。

    それが、とてつもなく苦い! 妙薬は口に苦いにきまっておるではないか。

    そう、それがカカオだったのです。

    スローンは、それにミルクや甘みを加えて、飲みやすい飲み物にしました。

    それをイギリスにもちかえって広めたところ、貴族たちの間でとても人気のある飲み物になったんだそうです。

    でも、はじめのころは、薬屋さんで売ってたんだって。 そもそも効用のある健康飲料だもんね。

    スローンは亡くなる時に、自分の膨大なコレクションを二束三文で国に譲りました。

    それがすぐ後に、大英博物館が誕生する核になったのです。

    本草学の医者と、豊かな植物が育つ中南米と、「もの」を収集する博物館が、

    不思議に結びついたとても興味深いストーリーですね。

    ちなみに、チェルシー地区には、「スローン・スクエアー」駅という地下鉄の駅がありますが、スローンの大邸宅があったことに因んだ命名です。

    でもって、その地区にある素敵な庭園、「チェルシー薬草ガーデン」も、もともとこのスローンの庭だったところ。

    居心地よいお庭で、おすすめです。(冬は閉じてるけど)

    スローンのブランドは、今でもイギリスのスーパー、Waitorose で売っています。

    とても柔らかな舌触りで美味しい!

    でも美味しいからといって、飲みすぎはよろしくないですよん。

    イギリス土産なら紅茶が定番だけど、

    こんなのも、大英博物館のお土産話にもなって、なかなか機転がきいているんではないでっしょか~。