カテゴリー: コンテンポラリー・アート

  • 『小学三年生』:ロンドンの多文化共生を語る美術展

    ロンドンの地下鉄プラットフォームを歩きながら、いつもと違う大広告に目が入った。

    そこにあるのは小学生の集合写真。

    どこの広告?と、企業名を探すが、みつからない。

    「Year 3 プロジェクト」とあるだけ。

    Year 3とは、イギリス小学校の学年で、7−8歳の生徒たちを指す。

    なるほど、写真のこどもたちはそれくらいの年頃で、先生を中心にこちらをみて笑っている。

    駅を出て街を歩くと、営業車が飛び交う道路脇の巨大なビルボード(広告看板)に、同じようなクラス写真があるのをみつけた。

    この街で一体何がおこっているのか。

    答えは美術館にあった。

    実は、イギリスのアーティスト、Steve McQueenのテートブリテン美術館(Tate Britain) での展覧会の一貫なのだ。

    そのタイトルこそが『Year 3』。

    だからといって、美術展の「宣伝」ではない。だって、ビルボードに「Tate Britain」という言葉もなく、そもそもこの特別展は入場無料だから。

    美術館の巨大ホールの全壁面は、ロンドンにある学校のクラス写真で覆い尽くされていた。

    一枚一枚のクラス写真に写った子供たちの多様性といったら!

    黒人の子もいれば、ヒジャブを被った女の子もいれば、白人の子もいれば、アジア系の子もいれば、車椅子の子もいれば、トランスジェンダーの先生もいれば。。。

    世界的な都、ロンドンは多民族都市だ。人口の53%は移民である。

    多様性はもちろん「民族」だけではない。

    「Year 3」といえば、子供が家庭から社会全体に関心を持ち始め、

    自分は何者なのかと、自己のアイデンティティーを獲得していく年齢でもある。

    アーティストは、現代の社会状況を、その豊かさを、その共存を静かに表現しているのだ。

    そこには、アーティスティックな技巧もない。◯◯イズムもない。学術的な解釈もない。

    あるがまま。シンプルで、だから力強い。

    わたしが美術館を訪れた時、まさに写真に撮影された子供たちが、招待されて学校からやってきていた。

    思えば、一般的に、美術館経営の中で「子供」は、「教育の対象」でしかない。

    ところがここでは、彼らこそが、アイデンティーという現代的なテーマの主人公でありコンセプトなのである。

    Steve McQueenといえば、20年ほど前に、あのトラファルガー広場の第四の柱に、

    障害のある妊婦をモデルに巨大な彫刻を作ったアーティストだ。

    彼の表現には、常に社会から差別されたり、見過ごされた人々の目線がある。

    彼自身も黒人のアーティストだ。

    さらに興味深いのは、彼のプロジェクトが、美術館という枠組みを超えて、ロンドンの市中に展開したこと。

    実に約600点がロンドン中にあるという。

    なんとアンビシャスなプロジェクトであることか。

    「文化における多文化共生」とか「美術館教育」とかという議論を超えて、

    その現実が生きられている街中に、道行く人々の目に、すっと入ってくるのだ。

    振り返って、日本も多文化共生の時代を迎えた。

    日本のミュージアムもようやく多文化対応を模索し始めている。

    ロンドンほどではないでしょうと、あなたは言うだろうか。わたしの周りは日本人ばかりですよと。

    本当にそうだろうか?

    この9月日本に帰って、コンビニやカフェで働く人の多くが移民の人々で驚いた。

    海外に住んでいるから、たまに帰国すると、その変化に敏感に気づくのだ。

    大きな変動が起こっていることを、ひょっとしたら、あなたは意識から外しているだけかもしれない。

    「外国人」は、一時的な「旅行者」だけではない。

    いや、もはや、「外国人」という認識自体を捨てるべき時ではないか。

    その現実を、刻一刻と変化する日本の社会図を、見て見ぬふりをすることはできないだろう。

    ***

    展覧会は、2020年5月3日まで。

    ビルボードのプロジェクトは2019年の11月22日まで

    2019.11.15

  • バンクシーの「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」に泊まったら・・@ベツレヘム、ヨルダン川西岸パレスチナ

    2019年4月、イスラエル旅行の最後に、ベツレヘムにあるバンクシーが建てたホテル「ザ・ウォールド・オフ・ホテル」の「バンクシールーム」に泊まりました。

    自分へのご褒美です!

    イスラエル政府がパレスチナとの間に建立した分離壁のすぐ横にあります。

    ホテルにはバンクシーのブラックユーモアやメッセージがたくさんありました。

    宿泊客しか入れないエリアも含めて、写真でお伝えしますねー。

    ウォールド・オフ・ホテルの正面。すぐ右側に素晴らしく頑強な分断壁がある。命名は、アメリカ資本の最高級ホテル、「ウォールドフ・アストリア」のもじり? もとはなんの変哲もないビルだったらしい。そこをステンシルでバルコニーやギリシャ風のフェイク柱を描き、豪華にみせた。
    赤いユニフォームを着たチンパンジーのドアーマンが迎えてくれる。「マダム、お荷物をお持ちします。あら、蓋があいちゃった。まだ新米なもんで、すっんません。にしても素敵な下着をお持ちで。」「失礼な。それ、あたしが着るような下着じゃないよ。」
    レセプションには、ロンドン、NY、エルサレムの時間を示す時計。バンクシーネズミが回っている。東京は遠すぎる?
    ホテルのコンセプトは20世紀初めのコロニアルスタイル。壁には剥製の動物の頭の代わりにCCTVカメラ。鉄砲の代わりに壁を壊すトンカチとかが並んでる。一番下には、ダイアナ妃とかの記念プレートが。
    20世紀のホテルを再現するのに、グランドピアノは欠かせない。天井からは救命マスクをつけたエンジェルたち。ホテルがオープニングした時には、イギリスからの遠隔操作で、エルトン・ジョンがピアノ演奏をしたらしい。
    かの有名なバンクシーのストリートアートも金色の額縁に。しかも、花束は本物の花瓶に入っている。
    一見、本棚。でも秘密のドア。客室に行くにはこのドアをドロンと抜ける。ちなみに客室数は9つ。ドミトリー形式からジャグジー付き豪華部屋まであります。
    客室をつなぐ廊下には、バンクシーらしいセッティングが。「TWO DOGS」! 確かに、イギリスの画家は犬を描くのが好きだからね。
    将来的には、ちゃんとバリアフリーにするらしい。でも、コンセプトは壁なのよね〜。
    じゃーん、わが「バンクシー・ルーム」。今宵は、どんな夢を見よう?
    ルーム・キーは、すぐそこにある分離壁の形をしてます。
    テレビのスクリーン、割っちゃったの? いえ。これはテレビのように見えるアート作品で部屋にテレビはありません。わたしらをカメラで面白半分で映すなよ!とパレスチナのおばさん? バンクシーのホテルではお馬鹿でフェイクなテレビ番組なんかみないで、ゆるりと本を読みなさいと諭されます。はい。
    だから本ならいっぱい。自由に読んでいい。しかも古本。徹底して1920年代風。
    水は大事な資源。ホテルで一回使っただけのタオルを洗うのに、大量の水を使ったりなんかできないよ。イスラエル側から意地悪され、水不足のパレスチナのために、お泊りのお客さんも協力してね。はい。
    バンクシーホテルの宣伝文句は、「世界一、眺めの悪いホテル」。これが、二階にあるバンクシールームからみた景色。分離壁のあちらには、イスラエルの近代的な街がどんどん建築されているらしい。壁には世界中からやってきたストリートアーティストの絵。写実的な女性の絵はパレスチナの16歳のヒーロー。
    ホテル内には、分離壁についての歴史的な検証をする小さなミュージアムやパレスチナアーティストの作品が紹介されたアートギャラリーがあります。ユダヤ人も来ていました。
    ホテルのブレックファースト。フムスやらやわらかいパンやらのパレスチナ料理。ユダヤの料理に似てるんだよね。美味しかったわ〜。
    ロビーからみえる「最悪」の眺め。壁のせいで日照時間はとても短いけど、ストリートアートがエネルギーをだしてる。
    16日間の旅おしまい。よく歩いてヘトヘトだけどいっぱい学んだし、実に楽しかった〜。明日はロンドンへ帰ります。
  • 第一次世界大戦から100年、知らない記憶を思い出させるアート

    首、胴体、膝、足首を紐で巻かれ、

    頭から足先まで白い布ですっぽり覆われた、
    小さな一体、一体。

    布の下に特徴ある鼻がみてとれる。首の向きがぎこちない。

    腕のない者。重いヘルメットがくいこんだような頭部。
    上体/下体を不自然に曲げた者。伸びきったまま硬直した身体。
    それぞれの最期が、目の前に無造作に転がっている。

    緑の芝に見渡す限り、無言のまま。

    小さな身体たちが、なぜか行儀正しく横たわっている。

    その数、72,396体。

    それは、第一次世界大戦の戦地で死んだイギリスとその連邦国からの兵士、

    遺体もみつからず、埋葬されてもいない兵士の数だ。

    毎年、11月11日はリメンバランス・デーといって、

    イギリスでは 戦争で亡くなった人々を追悼する式典が行われる。

    イギリスだけではなく、主たる戦地となったヨーロッパは無論の事、戦争に参加したカナダ、オーストラリア、インド・・・

    世界中のあらゆるところで、追悼の記念が行われる。

    この時期に、欧米に旅をしたことがある人は、街行く人々が 赤いポピーを身につけたり、街に飾られていたりするのをみたことがあるだろう。

    たくさんの兵士たちが死んだ激戦区で、赤いポピーが自然に群生したといわれ、第一次世界大戦の戦没者を悼む象徴となった。

    今年、2018年は、その大戦終結の100年目にあたり、イギリスの首都ロンドン各地でも、さまざまな記念行事が開催されている。

    逆に日本人が世界大戦と聞いて、 一般的に思い出すのは第二次世界大戦の方かもしれない。

    だが、欧米では、被害/加害の大きさだけではなく、それまでの戦争観を大きく変えた事、世界地図を大きく塗り替えた事、第二次世界大戦へのしこりを残したという意味で

    非常に重要な歴史的出来事なのである。

    冒頭で紹介したのは、ロンドンオリンピック会場(2012年開催)の敷地内に特別に設置されたインスタレーションアートだ。

    作品のタイトルは「ソンムのシュラウド」。

    ソンムとは第一次大戦の最も悲惨な激戦区(フランス北部)、シュラウドとは死者を包む白布を意味する。

    アーティストの名はロブ・ハード。小さな兵士の人形は全て彼が手がけたものだ。

    兵士たちが横たわる芝の向こうには、ねじれた赤い塔が立っている。

    オリンピックの記念塔、現代のイギリスを代表するアーティスト、アニッシュ・カプーアの巨大な彫刻作品だ。

    生命そのものをテーマとしてきたカプーアの巨大な作品と無数に広がる兵士たちの白い身体は、なぜだか不思議に響き合っている。

    全体を見下ろす高台の上に立つ。

    すると、自分を含めた見物人の大きな影たちが、横たわる白い小さな兵士たちの上を、長く亡霊のように動いているのが見えてくる。

    上空では、兵士たちの名前がこだましている。

    会場の脇で、ボランティアの人々が兵士たちの名前や出身地、戦死した原因を、ひとつひとつ読み上げているのだ。

    何日間かに及ぶパーフォーマンスだ。

    ここまで、100周年イベントの様子を描いてきたが、実は、個人的には、戦没者とか戦争追悼とかのイベントは好きではない。

    負の記憶を忘れまいという姿勢は、そうであるべきだと思うし、大いに賛同するが、母国を守って死んでいった英霊という崇め方をされると、違和感を覚える。

    もし、そこに愛国主義的な臭いを強く嗅ぎ取ってしまったら、近づきたくもない。

    この追悼の場は様子が違った。

    確かに、かつてのオリンピック会場というセッティングにすっきりしないものを感じたのは否めない。

    しかし、その日ここにきていた人々は、国旗を大きく振りかざす思想の持ち主ではなく、子供からおじいさんおばあさん、さまざまな人種の人々、近隣からふらっとやってきたような人々だった。

    そこには、若い兵卒たちのひとつひとつの死を、今を生きるわたしたち一人ひとりが思いやれる時間が流れていた。

    会場ルートの最後に、大きなテントに招き入れられる。

    中には兵士たちの名前が書かれたパネルが張り巡らされている。

    そこにある名前をひとつひとつみてまわっている人々がいる。

    知っている人や会ったこともない家族を探しているのだろうか。

    Charley Griffin  ドーセット州 兵卒 19歳

    Clement Griffith  ウエールズ、火打ち石銃兵 18 歳

    一人ひとりが名前をもち、戦場での小さな使命をもち、

    戦争の後ろに生活をもち、家族をもった人々だという、当たり前の事。

    そういう普通の人々が戦争の一番の犠牲者だった事を、今更ながら思い返した。

    戦没者が「かたまり」として、慰霊される式典では気付かない事だった。

    先にロンドンの各地で関連のイベントが行われていると書いた。

    実は、数日前にも、観光名所「ロンドン塔」で行われている式典にも足を運んでみた。

    塔をとりまく広大な堀では、この時期毎夜、戦死者の数だけのトーチにひとつひとつ火が灯され、荘厳なコーラスが響き渡る。

    同じロンドン塔で、2014年、つまり第一次大戦がはじまった100周年の時には、堀一面が戦死者の数の赤いポピ−で覆われた。

    どちらも確かに美しかった。

    でも、あまりに抽象すぎて、ノスタルジックで、正直なところピンとこなかった。

    自分が体験しなかった歴史、特に市民を巻き込んだ負の歴史は、

    その時代を生きた人々のパーソナルな存在を通して、はじめて思い遣ることができるのかもしれない。

    2018.11.18

  • 地球の肌:アンドレア・ガースキー展@ヘイワード・ギャラリー

    ロンドンのヘイワード・ギャラリーがリニュアル・オープンした。

    そのこけら落としの展覧会が、ドイツの写真家アンドレア・ガースキー(Andreas Gursky)。

    あの企画力のあるギャラリーが新展覧会で何をみせてくれるんだろう? 告知段階から気になっていた。

    地下鉄の広告ポスターにも目が奪われた。

    果たして、会場を訪れたら、やはり期待を裏切らない力強い写真展だった。

    ソーラーパネルの畑、90年代東京の株取引場、アマゾンの倉庫、イケアの工場、バフレーンのサーキット。

    どれも、群像を引きでとった集合写真。それがまるで、美しい模様のようにみえる。

    同時に、その裏にグローバル化、大量生産、スウェット工場、環境問題。。。が見え隠れする。

    アーティストが声高に何かをアピールしているのではないけれど、

    写真という真実のレンズを通して、観る者に考えさせる作品ばかりだった。

    カメラというフレームとアングルで、わたしたちが生きている現代を切り取ってみせ、この社会を振り返ることを静かに促していた。

    それらはまるで地球の肌のようだ。

    言葉はこれくらいにしよう。

    展覧会のスケールには及びもしないけれど、作品の向こうに見えてくるものに思いを寄せてみて下さい。

    4/22まで ヘイワード・ギャラリー Hayward Gallery にて

    2018.4.1.

  • ロシアから自由をこめて:イリヤ&エミリア・カバコフ展@テート・モダン

    部屋の外壁に厚手の黒いコートがかかっている。

    部屋の入り口には板がハマっている。

    板の隙間から、中をのぞいてみる。

    4畳ほどの広さ。床は散らばり放題。

    古新聞、汚れた靴、伸び切ったベルト、使いさしのペンキの缶・・・簡易ベットがふたつ。

    壁はポスターで覆い尽くされ、スターリンやレーニンの顔がみえる。

    赤・黒を基調にした、ソ連のプロパガンダ・ポスターだ。

    部屋には誰もいない。さっきまでいた気配はある。

    衝撃的なのは、天井に大きな穴がぽっかり空いていること。

    何かが空から落ちてきた。爆弾か? 隕石か?

    だとしたら、部屋の床に形跡があるはず。でも、奇妙なことに、そんなものもない。

    ふと、何かが宙吊りになっているのが目に入る。

    小さな板のようだ。それが天井の四隅からバネで吊り下げられている。

    あれは一体、何なんだ。

    わたしがみているのは、ロシアのアーティスト、イリヤ・カバコフのインスタレーション作品。

    タイトルは『自分の部屋から宇宙へ飛んだ男』とある。−なんと奇妙な。

    『宇宙から堕ちてきた男』なら、わかるけど。

    展覧会をみながら、少しずつカバコフが生きたソ連時代の人々の生活が垣間見えてきた。

    と、同時にこの作品の意味もつかめてきた。

    ソ連体制下では「表現」は大きな制限を受けた。

    一般の人々の生活も自由なものではなかった。

    都会には政府が造った共同アパートメントが立ち並んでいた。

    そこでは共同風呂や共同キッチンが当たり前で、常に他人の眼にさらされる場だった。

    つまり、コミュニティーが自前の監視システムとして機能していたのだ。

    作品は、抑圧された日常のリアリティーと、

    彼自身の、いや、すべての個人の自由への願望をあらわしているのだろう。

    思えば、この頃はアメリカと競り合って、宇宙船を飛ばしていた時代だった。

    テーマとしては重いけど、

    ここまでまっすぐSF的スケールで迫られると、

    感情を突き抜け、ユーモアさえ感じてしまう。

    展示はゆるやかにカバコフの活動歴を追っていく。

    ソ連が崩壊した後の作品も、かつての体制の記憶が残り、けっして自由ではないことを物語っている。

    最後の展示室では、天使が主なモチーフになっていた。

    不安定なハシゴのてっぺんに、小さな人がいて、両手を伸ばしている。

    天井からは天使がその手に自分の手をさしのべようとしている−そんな、部屋全体を占めるほどの大きな彫刻があれば、

    美術館の中の天使を描いた平面作品や、ビル街に落ちた天使や。。。

    羽をもつ天使は、最初の作品、『自分の部屋から宇宙に飛んだ男』の裏返しなのか。

    そこまで展示をみてきて、

    なるほど、抑圧された生活って、ソ連だけに特有なのではなくて、

    現在の社会にもつながることに気付かされる。

    21世紀のイギリスにも、日本にも。

    あの小さな人は、実は私たちなのかもしれない。

    あの天井に穴を開けたのは、わたしたちの望みなのかもしれない。

    どの国にも体制による、あるいは社会自身による抑圧がある。

    でも、どんな人にも自由への希望がある。

    展示全体が、そう語っているかのようだった。

    2018.1.18

  • 私たちが生きる時代を撮る:ヴォルフガング=ティルマンス

    時を忘れた。思いもよらず見入ってしまった。

    写真の展示でそんな経験をしたのは、何年ぶりだろう。

    何に魅了されたのか−すぐに答えがみつからなかった。

    でも、そうやって美術館を出た後々まで、

    「なんでわたしは魅せられたわけ?」と、答えを探さないではいられない展覧会が好きだ。

    だから、こうやって拙い言葉でつなげとめようとしている。

    テート・モダンでの「ヴォルフガング=ティルマンス(Wolfgang Tillmans)2017」展。

    よい展覧会はいつも最初の部屋から惹かれてしまう。今回もそうだった。

    ひとつひとつの作品は、

    何気ないホテルの一室・島が浮かぶ星空・赤い車のヘッドライト・アラブの街のマーケットの様子・カニとハエのクローズアップ。。。

    なんの変哲も、なんの主張もない写真にみえる。

    そんな日常的なものがショッキングに新鮮なのは、

    まるで宇宙人がみるように捉えているからだ。

    宇宙人がはじめて地球に降りて、今までみたこともない世界を留めておきたいと思ったら、

    こうなるんじゃないかという写真なのだ。

    わたしたちは、レンズを構える前に、すでに「車」というものを知っている。「カニ」という存在も知っている。

    当たり前すぎて気が付かないのだけど、

    そういう知識が先にあって、その「知識のフレーム」の中で写真を撮る。

    車なら車のように、カニならカニのように。

    でも、ティルマンスは違う。その「アングル」も「切り取り方」も、何が彼の視覚レンズに映るかも。

    もちろん、彼は宇宙人ではない。

    逆にいうと、そのような知識のフレームを取っ払うのは並大抵の事じゃないだろう

    −そこに彼が単なるカメラマンではなく、アーティストである所以がある。

    そうやって撮った写真作品は、マクロで同時にミクロ、知的でかつ感覚的、アブストラクトで写実的。

    そして部屋にあるすべての作品が、被写体も手法も大きさもバラバラなのに不思議に響き合っている。

    写真一点一点で完結するのではなく、部屋全体がひとつのインスタレーションとして作られ、

    そこに詩がある。

    思うに、ひとつだけ、彼が宇宙人から人間に戻るジャンルがあった。

    それは被写体が人間の時だ。

    彼の恋人を撮る時、パーティーのグループを撮る時、街の民衆を撮る時。

    彼は宇宙人から人間に戻って、人の存在の愛おしさやはかなさや強さを表現しようとする。

    でも、その人を被写体にしたものが、アブストラクトな写真や、植物、海面、建築物などと、同じ部屋で結ばれた時は

    また、あの彼独特の詩の世界のひとつとなる。

    ヴォルフガング=ティルマンスは1968年生まれのドイツ人、イギリスの美大をでて、2000年にターナー賞を受賞した。

    現在もロンドンとベルリンを拠点にするアーティストだ。

    日本でも何度か個展が行われたらしい。

    もうひとつ、わたしが魅了された理由は、彼の表現に、わたしたちが生きている「現在」に対しての、アーティスティックな問いかけが込められている事だ。

    イラク戦争−その大義となった「殺戮兵器の存在」をめぐる、「真偽」というそのもの、

    日本海の領海水域問題の緊張をめぐって、その根本にある「領域」という考え方そのもの、ゲイの差別や解放運動をめぐっての「ジェンダー」とは何か、トランプ政権の誕生−ポピュリズムをめぐっての社会の危うさ。

    アートに政治を持ち込むなんて、とお思いだろうか?

    でも、アートは歴史を通して常に政治的でその時の社会を反映していた。

    ダ・ヴィンチもカラバッチオもレンブラントもゴヤもマネもゴッホもピカソも。。。

    彼らは時代や社会から目をそむけはしなかった。

    政治的な主張をしたのではなく、

    他のメディアとは違う視点から、彼らが生きた「時代/世界」をみせつつ、

    人々にしっかりと自分で考えるよう、誘ってくれた。

    ヴォルフガング=ティルマンスもまた、

    今回の展覧会を通して、

    今わたしたちが生きている社会を、一歩ひいた位置から違う「アングル」「切り取り方」「レンズ」で問い直してくれる。

    2017.5.31

  • 美術館に飾られるBANKSY、アムステルダム

    2016年末、アムステルダムの美術館でバンクシーをやっていると聞いて、

    ロンドンから弾丸旅行をした。

    バンクシーのファンであるだけではなく、ストリートアーティストの作品を美術館という場でどうみせるのか、どんな社会的インパクトがあるのか、自分の目で確かめたかったからだ。

    最初は懐疑的だった。

    ストリートに生きるはずのアート作品が、「美術館」という限られた空間ではうまく生かせないんじゃないの?とか、

    警察や国家などの権威に対して、反骨精神をもって向かうのがバンクシーらストリートアーティストの姿勢のはずで、

    彼らにとって「美術館」もある意味権威に違いないのに・・・、

    結局、そっちにとりこまれちゃったわけ?

    ・・・・なんて、かなり疑い深い気持ちが正直あった。

    ところがところが、さすがのバンクシー。

    展覧会をみてきて、この人はやっぱりホンモノだと思ったね。

    アムステルダムでは、ふたつのミュージアムでやっていた。

    Beurs van Berlage という中央駅前にある立派な文化施設と Moco Galleryというゴッホ美術館の隣にある現代アートの美術館。

    特にMoco Gallery が面白かった。

    ここは、20世紀はじめに建てられたモダンな邸宅が美術館になったところ。

    美しいステンドグラスとか暖炉とかキャビネットがとかがある、とても洒落た建物。

    ストリートアーティストたちが普段活躍する、廃墟ビルとか汚らしい横道とか、高架下とかとは正反対の空間だ。

    そこに、バンクシーの作品がしっくり馴染んでいるなんて、とてもいえないけれど、逆に、そのコントラストが、興味深く、圧倒的だ。

    だから、美術館に取り込まれたのではなくて、きっとバンクシーはそのギャップを狙ったんだ、と思った。

    部屋ごとに「兵器」「監視社会」「商業主義」「それでも希望がある」といったテーマがある。

    作品の一点一点も、額にはまっていたり、彫刻台にのっていたり、一点一点に解説がはいっていたり、典型的な「美術館」の見せ方だ。

    作品の横にちんまり解説ラベルが貼られていることなどに、はじめは笑えてしまった。だって、ストリートアートは、美術を読み解くリテラシーのある一握りの人々だけではなく、

    町に生きる一般の人々に向けた直接的なメッセージすることが命であり、現代美術館によくあるような難解な作品ではない。

    ほんとうはバンクシーの表現に「解説」なんて無用なんだから。

    でも、作品の一点一点をみるうちに、

    実は、この「美術館」という空間で展覧会自体をやることが、

    彼の裏返しのコンセプトなのではないかと思えてきた。

    そこには、わたしを含め、見に来た観客もが巻き込まれている。

    アートって誰のためのものなのよ?

    美術館って何よ?

    つまるところ、アートって何なの?

    「美術館に展示されたものがアートである」

    というわたしたちの概念に、逆説的にパワフルに問いかけてくる。

    一点一点の作品だけではなく、この展覧会全体をふくめて、わたしたちが生きる社会について、裏返しの視点から考え直させてくれる。

    たぶん、絶対的な答えなんてないんだろう。

    だって、アートの定義はその時代に生きる人々が作っていくんだから。

    むしろ、つくられた定義に迎合したりせず、その限界に果敢にチャレンジし、命がけで根本的な問いかけをしてくる、それがホンモノのアートだと、わたしは思う。

    レンブラントも、ゴッホも、アンディ=ウォーホールもそうだったように。

    それがアートの力だと、今回の展覧会をみて再確認した。

    ストリートアートのすばらしさのひとつは、そのユーモアにある。

    笑いには、愛が裏打ちされている。

    どんなに困難な社会に生きようと、人間がもちえる、すばらしいバランス感覚だろう。

    この展覧会は、「Laugh Now 」というタイトルだ。

    展示された作品の中に、猿が首から看板を下げているものがあった。

    そこには、こう書かれている

    「Laugh now, but one day we’ll be in charge」

    なんとブラックな風刺のきいたメッセージではないか。

    それでも、わたしたちは、少なくとも、バンクシーの展覧会に巡り会えた。

    一点一点の作品を、同時にこれを見に来たわたしたち自身をも、

    笑い飛ばせることが今日の幸せだと思う。

    明日からエジプトにいく。

    2011年、アラブの春の時、かの地では、たくさんのアートがストリートに花開いた。

    でも、権力側は、反体制的な「ゴミ」として、みごとに一掃したのだそうだ。

    もし、残っているならば、是非、アートの力に出会ってみたい。

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    2017.1.1

  • 教会の中の現代アート:ウィンチェスター大聖堂のアンソニー・ゴムリー

    教会の地下室に降りていくと、ヒヤリとした空気に包まれた。

    いくつも重なるゴチック式の屋根の下、

    ひとりの男の像がぽつんと立っている。

    両手を丸めて小さな杯をつくり、そのなかに目をおとして立っている。

    水をすくってできた手のなかの小さな池に、自分自身を映しているかのようだ。

    教会という空間だけに、静寂で瞑想的な空気が満ちている。

    だけれど、魂は神に向かっているのではない-自分自身に向かっているのだ。

    2015-11-08 13.37.03

    この教会は、イギリスでも最も古く、重要な教会のひとつ-ウィンチェスター大聖堂(642年設立)である。

    地下室は教会建築の中で最古の部分だ。

    男性像をつくったアーティストは、現在イギリスで注目を集める彫刻家、アンソニー・ゴムリー。

    作品のタイトルは「Sound II」。

    その像は、実は、アーティスト自身の体からとったキャストだという。

    わたしが訪れた時、像が立つ床のヒビには、水が含まれていたのが見て取れた。

    立像の足元に湿ったヒビが広がり、まるで作品が空間全体に広がっているようにみえる。

    雨が降り続くと、その像が立っている床は水浸しになり、像の膝丈ぐらいまで達するらしい。

    実は、この教会の下にはもともと川が流れていた。

    紀元後100年以前にやってきた古代ローマ人たちが、その川の流れをかえて、町をつくったのがこのウィンチェスターという古都の起源だ。

    そんな歴史を知れば、水をすくう人物像がより深い歴史の厚みのなかでみえてこよう。

    思えば、教会は西洋美術のゆりかごだった。

    音楽や演劇と同様に、美術は神の世界を表現するツールだった。

    それが、貴族の家々を飾り、ブルジョワ階級を潤し、美術館に展示され、やがて美術館の外にでていった。

    美術の機能も意味も表現も多様化した。

    この10年、再び、美術が教会の中に新たにとりいれらたケースが増えたように思う。

    でも、かつての機能や表現とは決して同一ではない。

    宗教画ではなく、現代美術だ。

    アンソニー・ゴムリーの Sound II がそうであるように。


    2015/11/28

  • 箱が変われば、中身も違ってみえる::デュッセルドルフ K21 美術館

    美術館建築物のレイアウトが違えば、そこに展示された作品のひとつひとつ一が違って見える。たとえば、NYのグッゲンハイム美術館はユニークな建物外観で知られるが、実は内側も面白い。

    建物中央に螺旋状の巨大なスロープがあり、来館者はまず一番上にのぼり、スロープに沿って降りてくる。作品はスロープの外側の壁に並んでいる。

    だから、壁に掲げられた近代アートは、スロープによってつくられた「ある流れ」の中で鑑賞することになる。

    この夏、ドイツはデュッセルドルフの現代美術館「K21」を訪れた時も、建築の構造が鑑賞に与える影響を考えさせられた。

    同時に、美術史において、作品の表現形態や規模が変化していくならば、それを容れる器の構造も変化する事に気付かされた。

    K21の建築物は、19世紀にできた箱形の建物で、とりたて目新しいものではない。

    DSCN5687

    だが、一歩中にはいれば、控えめだが「新しさ」が加わっている事に気付く。

    オリジナルの建築物は回廊状で、以前はここに中庭があったのだろう。

    それが現代美術館として改築された時、

    中庭部分にガラス張りの天井がとりつけられ、

    かつての地面は石のフロアーになって、美術館のインフォメーションデスクやショップが設置されたのだ。

    肝心の展示室は建物の上階にあって、もとの回廊に沿って並んだ部屋が充てられている。

    ひとつひとつの部屋は、ひとりのアーティストの作品だけで構成されている。

    その多くは、空間全体を作品化した「インスタレーション・アート」だった。

    例えば、「アントニー・ロー」の部屋では、床全部に鏡が敷き詰められ、壁には映像が映され、それが床に反射している。

    中央部には階段がしつらえられていて、そこを歩く事ができる。来館者はそこで不思議な映像の世界を丸ごと体感するのだ。

    DSCN5663

    「ヒッシュホーン」の部屋は、おどろおどろしいマネキンやペットボトルや巨大なチェーンが埋め尽くしていた。

    大災害の後のような空間に身をおくことになる。

    DSCN5668

    もちろん、すべてがインスタレーションではなく、写真や絵画などの平面作品もあった。

    だが、ひとつの部屋が一作家による作品で占められているので、結果的に、ひとりの作品世界に入り込む事になる。

    このような構造の美術館ができたのは、1970年代以降、美術作品の規模が大きくなり、

    インスタレーション作品が増えてきた事と深く関わるに違いない。

    確かに、他のアーティストの作品とじかに見比べたり、関係性を見いだしたりは、難しいかもしれない。

    だが、わたし個人はその動きを好意的に受け止めている。

    あるひとりのアーティストの作品をちゃんと理解しようと思ったら、

    そのような規模で、しかも閉じられた空間の方がわかる場合が多いからだ。

    わたしが訪れた時、K21では、トーマス・サラセノというアーティストの特別展示をやっていた。

    だからといって、特別展示室というのが設置されているわけではない。

    どこかというと、かつて中庭だったところの空にはられた大きなガラス屋根の下である。

    彼はそこに巨大なネットをはって、中にメタルな巨大風船をいくつもおいた。

    なんと、そこは人々が歩き回る事ができるようになっている。

    下から見れば、まるで宙を歩いたり、這ったり、泳いだりしているように見える。

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    それだけみると、なんだサーカスかアミューズメントパークとどこが違うのよと、(高所恐怖症の)私は否定的にみてしまうのだが、先ほどの小さな展示室にも彼の作品の部屋があって、ほほうと思った。

    暗い部屋のあちこちに、キラキラ光る糸が張り巡らされたケースがおいてある。

    ひとつのケースに近づいて、よく見ると糸は蜘蛛の糸だった。

    建物の天井全体を使ったシルバーのネットは、なるほど、そのメタファーだったのだろうか。

    ということは、天井を歩く人々は、蜘蛛の餌食なのだろうか。

    みなさん、楽しそうに餌食になっている。

    なかなかのブラックユーモアである。

    トーマス・サラセノもひょっとしたら、高所恐怖症なのではと、私は、勝手に解釈した。

    K21 公式ホームページ


    2015/8/15

  • Who are you? グレイソン・ペリー展@肖像画美術館

    「また、やられた!」 最初の作品を見てそう思った。

    ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで開催中の「Who are you? グレイソン=ペリー」という展覧会だ。

    展覧会のタイトルからして、直球。

    イギリスの王侯貴族から現代のセレブリティーまで、肖像画を歴史順に展示する美術館を舞台にして、

    「あんただれよ?」である。

    最初はだれに問いかけているのか戸惑うかもしれない。でも、すぐにわかる。

    たとえば、壁面いっぱいの大きくて、色鮮やかなタペストリー、でかでかとエリザベス女王の顔がある。

    でも、作品全体が女王のただの肖像画とはいえない。

    なぜなら、それを囲むようにイギリスを表す言葉がぎっしり敷き詰められているからだ。

    フィッシュ&チップス、雨、NHS(国民皆保険制度)、カッパ、ティー?(紅茶いっぱいどう?)、ヴィヴィアン・ウエストウッド、マグナカルタ・・・・

    つまり、これは「イギリス自体の肖像画」ってこと。

    女王の存在もその一部ってこと。

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    Grayson Perry National Portrait Gallery

    ペリーの他の作品は、肖像画美術館の常設ギャラリーのさまざまなところに散在している。

    中世から現在にいたる歴史上の人物の肖像画と隣り合わせに、ペリーの作品がならべられているのだ。

    モダンライフの部屋にいけば、ペリーの陶磁器作品があった。

    そこに絵がかれているのは、「現代の」家族の肖像だ。

    白人男性同士のカップルに養子となったアフリカ系の男の子という家族である。

    別のコーナーにはシルクのタペストリー。 白人の女の子がイスラム教徒になり、ショッピング街からメッカにいくところを描いている。

    アルツファイマーの夫と暮らす女性の肖像画 (陶磁器作品)

    あるいは、キリスト教の慈善団体に助けられてホームレスの人たちが家族として暮らす家(陶磁器作品) ・・・

    作品の隣には、ペリー自身が書いた解説ラベルがついている。

    たぶん、モデルに出会っていろいろ話をきき、それをヒントに、作品をつくったに違いない。

    王侯貴族でもセレブでもないけれど、それぞれが、現在に生きるパーソナルな物語である。

    それらが美術館の常設展示のなかに、散在していることで、結局のところ肖像画とは何かとといかけてくる。

    そして、もっといえば、

    「WHO ARE  YOU?」だ。

    このブログを書きはじめた頃、グレイソン=ペリーの大英博物館での特別展のことをとりあげたことがある。

    ペリーは、子供の頃からクロス・ドレッサー (異性装)だった。

    今でこそ、晴れの舞台では、女性の格好をして人前に立つけれど、子供のころから自分のジェンダーやアイデンティティーに悩まされた。

    そのことを重ねるならば、

    「WHO ARE YOU?」の意味はもっと深くなるに違いない。

    もうひとつ、「してやられた!」と思った理由は、

    大英博物館での展示の時と同じように、展示という空間、しかも常設の展示と遊んでいることだ。

    ペリーの作品が散在することで、従来の展示がまた違うように語りかけてくる。

    ペリーは、英国人のアイデンティティーという枠組みだけではなく、アートという枠組み、展示という枠組みにも違う見方を誘うのである。

    2014/11/2